蜀の2代目皇帝である劉禅の幼名は「阿斗」です。三国志演義には、甘夫人が北斗七星を飲み込む夢を見てから懐妊したことから、そう名付けられたと記されています。後世では無能な人間のことを阿斗(アホな人)と呼ぶようになったそうですが、劉禅はどうして暗君とされているのでしょうか。
宦官の台頭を招く
劉禅が暗君とされる理由のひとつが、諸葛孔明亡き後、宦官の黄皓を重用し、後漢末期のような腐敗に満ちた政治をしたことがあげられます。
姜維は何とかして黄皓を除こうとしましたが、巧みに逃れています。そして魏の侵攻に対する援軍の要請を握りつぶしてしまうのです。蜀滅亡の元凶とされるのが黄皓というわけです。なぜこのような人物が蜀で権力を持てたのでしょうか?劉禅の目には黄皓が諸葛孔明のように映っていたということなのでしょうか?
成都の無血開城
劉禅が暗君とされる理由のもうひとつが、成都を無血開城したことです。先人が必死の思いと努力で建国した蜀を、劉禅は抵抗することなくあっさりと滅ぼしました。劉備や諸葛孔明の苦労を知っている三国志読者は悔しがるわけです。日本では江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜が同じように江戸城を無血開城しています。そう簡単に落城するわけではないわけですから、幕府に与した人たちはかなり悔しがったことでしょう。ただ、どちらにも共通することですが、この決断のおかげで民は血を流すことなく済んだのです。まさに英断ともいえます。プライドが少しでも高ければ無血開城などできるわけがありません。
司馬昭に素直に答える
降伏した劉禅は洛陽に送られますが、意外にも心安らかに過ごしたようです。魏の宿敵である蜀の皇帝だったわけですから手荒に扱われても仕方ないのですが、まったく警戒されていません。家臣の郤正から司馬昭に故郷について尋ねられたら、「一日とて思い出さないことはないと答えて涙を流すのです」とアドバイスされた劉禅でしたが、実行に移すものの目を閉じても涙が出ません。
さらに司馬昭から「郤正の言葉にそっくりですな」と指摘され、素直に認めました。あまりに不甲斐ない言動に蜀ファンだけでなく、三国志ファンは落胆してしまうのです。果たして天然だったのか、計算したものだったのでしょうか。敵の警戒を解くための芝居だったとしたらなかなかの役者ぶりです。
劉禅の性格は?
他人を疑うという性格ではないようです。野心がないのは間違いないでしょう。後漢王朝の復興という志のために人生を犠牲にするよりも、もっとのんびり気楽に過ごしたかったのかもしれません。確かに君主たる器ではなく、国力を高め領土を広げる政治ができるような器量もなさそうです。無害な人物というのは、人として劣っているわけでは決してないですが、皇帝や国王としては失格なのでしょう。
三国志ライターろひもと理穂の独り言
民のことを第一に考えるのであれば、戦争を続けない道を模索し、平和を求めるのも立派な政治だと思います。蜀の民は別に、魏だの蜀だの後漢だのといったことにはこだわりがなかったはずだからです。むしろ北伐を続けることで国は疲弊していましたから、蜀の存続を願っていなかった民も多かったかもしれません。
そんな民意を敏感に感じ取っていたとしたら劉禅の行動にも筋は通ります。なんといっても益州の民は生まれながらに蜀という独立国家の民だったわけではないのですから。外から来た劉備が勝手に建国したに過ぎないのです。これ以上の迷惑はかけられないという気持ちもあったのかもしれません。黄皓はそんな劉禅のニーズに応えようとしたために重用された……なんていう可能性もありますね。いろいろな視点で劉禅を見てみるのもいいのではないでしょうか。
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