三国志の曹操(そうそう)は、政治も軍事も一流で詩まで書けちゃうニクいやつ。忙しい最中にも読書を欠かさず、文学の発展につとめて「建安文学(けんあんぶんがく)」なんていう文学の一大ムーブメントを築きました。高校の世界史の副教材にちっちゃく載っていたくらい有名だから、きっとさぞかし素晴らしい文学なのでしょう。と思って読んでみたら、あれ、あれ、あれれ……
元ネタ知らないと仲間外れ
読めませんぜ。日本語で書き下し文や注釈がばっちり付けてある本を見ているのですが、ちんぷんかんぷんです。なになに「青青子衿 悠悠我心」? 元ネタは詩経?ええ~、古典をちゃあんとお勉強してないと分らないのかぁ……。なるほど~、今でもありますよね、元ネタを知ってないと楽しめないものって。
「げえっ、関羽」とか「ならばよし!」とかと同じ次元の話ですね。元ネタですか……。分る人だけ分ればいいっていう、そういう文学なんですね、建安文学って。
誰でも楽しめた漢(かん)代の文学
せっかく文才あるんだったら、もっと誰でも楽しめるピュアな作品を書いてくれればいいのに。どうしてわざわざ小難しくしたんでしょうね。三国志より前の、漢(かん)の時代には、現代人が読んで普通に沁みる名詩が数多くあるんですよ。例えば、漢の初代皇帝劉邦(りゅうほう)の詩
大風起こって雲飛揚(ひよう)す
威は海内に加わって故郷に帰る
安(いずく)にか猛士を得て四方を守らしめん
天下とったどー! っていう感慨を大空に揚がる雲に託した伸び伸びとした詩で、すごく分りやすいです。あ、べつに沁みませんか。じゃあ読み人知らずのこれなんかどうでしょう。漢字がいっぱいすぎるのは斜め読みして頂くとして……
去る者は日に以て疎(うと)く 来る者は日に以て親し
郭門(かくもん)を出でて直視すれば 但(た)だ丘と墳とを見るのみ
古墓は犂(す)かれて田と為り 松柏は摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となる
白楊(はくよう)悲風多く 蕭蕭(しょうしょう)として人を愁殺す
故里の閭(りょ)に還らんと思い 帰らんと欲するも道因(よ)る無し
郊外に出たらお墓がごろごろあって、古いお墓は畑にされている。去りゆく者は忘れ去れるのみだ。みたいな、悲しげな詩ですな。これ、なんの予備知識もなく普通に読めます。とてもシンプル。
その文学、楽しいんですか……
建安文学はシンプルじゃないす。古典をいっぱい読んでて賢いんやぞーとか、言葉遊びが上手でトンチがきいた冴えた奴なのさっ、とか言いたげな雰囲気があります。ご自分の業績のコマーシャルソングみたいなものもありますな。ここでは挙げませんが、曹操、曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)あたりの詩をお読み頂ければああなるほどと思って頂けるはずです。なんでそんなことになっちゃのかというのが疑問。
わざと小難しくした!
限られた者だけが参加できる、小難しい文学。それが建安文学。曹操がどうしてそんな文学を育んだかと言うと、それはズバリ、詩作が苦手な司馬懿(しばい)を仲間外れにするためです!
(司馬懿の詩作ベタについては過去記事「三国志の英雄たちの詩を調べたら司馬懿ヒドすぎワロタwww」にあります)司馬懿は古い時代から続く権力構造の中の親玉であって、新しい政治を行いたかった曹操にとっては邪魔者でした。(司馬懿は代々続く名士層の出身、曹操はどこの馬の骨くんです)なので、司馬懿っちがどんなに偉いか知らないけど建安文学分んなかったら相手にしないんで、っていうポーズをとったんですな、曹操は。
建安文学の影響と末路
こんな次第で、三国時代の文学は残念ながら非常に難解です。ここで小難しい文学に慣れちゃった文化人たちがその後の時代に書いていた文章も私レベルの者にはちんぷんかんぷんです。ようやく読める文章が登場するのは、曹操の時代から500年も後の唐(とう)の時代になって、古文復興運動が起こってからです。
三国志~唐の前までの文学をスルーして、漢以前の古い質実剛健な文章に戻しましょう、という運動だったそうな。三国時代、スルーされましたぜ。痛恨!
三国志ライター よかミカンの独り言
どうりで、学校で習う漢文は『史記(しき)』と李白(りはく)・杜甫(とほ)の唐詩ばっかりだったわけだ。トホホ……。
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