王基(おうき)。王凌(おうりょう)・司馬懿(しばい)にその才能を見いだされ重用されるも、一時期曹爽(そうそう)に近い人物であったため、閉職に追い込まれてしまいます。しかし再び将軍の位について着々と功績を重ねていくことで、再度魏で重用されていくことになるのです。
長男である司馬師が司馬懿の跡を引き継いで魏の政権を運営することになります。王基は司馬師に人材を推挙して魏の政権に役立てて欲しいと連絡。司馬師は王基の進言を採用して早速推挙してきた人材を登用します。
こうして司馬師との関係を良好になっていく中、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こします。
王基は彼らの反乱鎮圧のため、先鋒として進軍を命じられることになります。彼は司馬師から幾度も「先走るな」との命令を受けるのですが、自らの戦術眼を信じて司馬師からの命令に逆らってガツガツ進んでいきます。しかし彼の戦術眼は確かであり、この先走った行動によって毌丘倹と文欽の反乱鎮圧の要因の一部を形成することになります。
こうして司馬師の時代に功績を残したことによって司馬家が運営する魏の政権でも、重用されていくことに。
そして司馬師が亡くなると弟・司馬昭(しばしょう)が彼の跡をついで、司馬家を率いて魏の政権を運営することになりますが、またしても寿春で反乱が勃発してしまいます。
今度は諸葛誕(しょかつたん)が用意周到に反乱の準備をしてから挙兵したため、毌丘倹と文欽の時のように簡単に鎮圧することが難しい状態となっておりました。王基は司馬昭から諸葛誕討伐の命令を受け寿春包囲作戦に参加。担当となった持ち場には毎夜反乱軍と呉軍の連合軍が攻撃を仕掛けてきますが、彼は反乱軍の軍勢を幾度となく撃退。
この王基の活躍や諸将の奮戦によって諸葛誕は討ち果たされることになり、反乱は終息する事になります。しかし王基の活躍はこれだけでは終わらず、呉の得意芸である偽りの降伏をニュータイプばりの直感力で、看破する功績を挙げております。
胡烈の上奏
襄陽(じょうよう)太守であった胡烈(これつ)。彼は呉との国境が近いことから呉の情報が色々と入ってきます。そんな彼は呉の武将・鄧由・李光(りこう)から「私たちは呉から魏へ降伏したいと考えております。そこで今回言葉だけでは今まで敵対していた国の将軍の言葉を信用できないと考え、人質を送ります。
何卒魏に帰参できるように皇帝陛下に取り計らっていただけないでしょうか。もし帰参が叶い魏の軍勢が我らを迎えにやってきて頂けるのであれば、私達は呉軍を引き連れて寝返る心づもりです。」と手紙を送ってきます。
胡烈はすぐに皇帝へこの呉の将軍の手紙を送って、彼らの帰参を取り計らいます。司馬昭(しばしょう)は胡烈の意見を採用することを皇帝に進言。皇帝・曹奐(そうかん) も司馬昭が承諾していることから、胡烈の上奏を採用することになります。
王基に皇帝から命令が下るが・・・・
曹奐は王基へ「君はすぐに諸将を統率し、胡烈に命じて軍勢を率いさせて且水に進出するように命令を下すように。期日に合わせて鄧由がやってくれば魏にとって大きな利益となるはず。」と命令が下されます。王基はこの皇帝・曹奐からの命令を受けると疑問を持ってしまいます。
王基のニュータイプへの覚醒!?直感力が働く
王基はこの命令を素直に信じることができずにある疑いを持ってしまいます。それは呉のお家芸とも言える偽りの降伏なのではないかと言うことです。
赤壁の戦いの時の黄蓋(こうがい)、石亭の戦いの時の周魴(しゅうほう)など呉が降伏を申し入れてくるときは大体偽りの可能性が高く、魏軍は呉の降伏を受け入れて軍勢を進ませると大損害を受けていることが多々ありました。そのため呉が降伏を申し入れて降伏してくることを警戒しなくてはなりません。このことに気づいた王基は「ピキーン」とニュータイプの直感が働き、呉がまた偽りの降伏をしてくるのではないかと考えます。
司馬昭へ注意を促す
王基はすぐに使者を司馬昭の元へ走らせ「国内で次々と反乱が勃発して、国内は大いに荒れております。そこで現状最優先で行わなければならないのは、国内を安定させて民衆に安心感を与えることです。そのため軍勢を動かして国外に利益を求めるのはよくありません。」と進言。
王基はこれだけでは司馬昭は呉の降伏を信じてしまうかもしれないと考え、再度司馬昭へ使者を派遣します。王基は「大軍を出陣させて国外の敵の内応に応じる手配を行うよりも、しばらくはじっとしているべきであると考えます。呉の武将の降伏は信じないほうがいいと考えます」と提案。司馬昭は王基から何度も呉の武将の降伏を信じるべきではないとの進言を受け、呉の武将達の降伏が偽りの降伏なのではないかと疑いを持ちます。
王基の進言を採用する
司馬昭は王基の進言を採用して、呉軍を迎えるための軍勢を差し向けることを中止し、しばらく情勢を見るように諸将へ命令を発します。呉の将軍は魏軍が迎えに来ないことから魏へ降伏する事をしませんでした。司馬昭は王基の指示に従ったことで魏軍に大損害を与えることをしないで済み、王基のニュータイプばりの直感力が魏の損害を防ぐことになりました。
王基へ褒美と感謝を述べる
司馬昭は諸将へ元の駐屯地に戻るように指示を出します。そして彼は呉の偽りの降伏を信じなかったことで、魏軍に大損害を出さずに済んだことから王基へ褒美を与えることにします。司馬昭は王基へ褒美を与えるだけではなく、彼に感謝を述べるべく手紙を書いて送ります。
司馬昭は「物事に従う場合自らの意見を曲げて従うことが多いのが常である。しかし君は自らの意見を曲げることなく理論と事実をしっかりと突き詰めて進言してくれた。今回君の進言がなければ魏軍は大損害を受けていたことであろう。今後も君は遠慮することなくしっかりと理論と事実を持って私に指示を与えてくれ。今度ともよろしくお願いする。」と感謝の言葉を王基へ述べております。こうして彼の活躍によって魏軍は大損害を受けることなく、魏呉国境は今日も穏やかな一日が過ぎていくことになったのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
王基は呉の常套手段である偽りの降伏をニュータイプばりの直感力で、看破したことによって魏軍は大損害を受けることはありませんでした。王基は歴代の呉の偽りの降伏者を知っていたかは知りませんが、彼の自国内における状況判断能力とニュータイプばりの勘の鋭さは並大抵ではないと言えるのではないのでしょうか。
王基はこの呉軍の武将達の偽りの降伏を見破った年に亡くなってしまいます。彼がなくなったことを知った司馬昭は彼に司空(しくう)の位と景侯(けいこう)の諡(おくりな)を送って多年の功績に報いるのです。そして晋の国家が樹立された際、彼の功績が多大であったことから王基の息子に褒賞が与えられております。
このように司馬家にとってとっても頼りになった王基。魏の政権と司馬家政権を支え文武に秀でた逸材と言えるのではないのでしょうか。それにしても呉は偽りの降伏を幾度となく使用しており、これだけニセの降伏を行っていれば、魏軍にバレそうな気がするのですが・・・・・。それとも呉はお家芸となった偽りの降伏にたいして絶対の自信があり、バレないようにどうやって相手に信じ込ませるかの技術を磨き続けていたから、何度も同じ手を多用するのでしょうか。こればかりは立案者に聞いてみないとわかりませんね。
参考 ちくま学芸文庫 正史三国志魏書4 今鷹真・井波律子など
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