三国志一の人材マニア曹操(そうそう)。
曹操は敵の勢力に属して有能な人材であればすぐに手を出して仲間に加え、曹操が勧誘した敵勢力の代表的な例は呂布軍の勇将・張遼(ちょうりょう)、袁紹軍一の忠義の武将・審配(しんぱい)、孫策軍の張紘(ちょうこう)、劉備の義弟で神として崇められることになった関羽(かんう)など数多く、挙げればきりがありません。
人材コレクターの名を欲しいままにしていた曹操は、ついに孫呉の初代大都督・周瑜(しゅうゆ)にも手を出していたのです。
この記事の目次
周瑜に目をつける
曹操は天下統一を決める決戦・赤壁(せきへき)の戦いで孫呉軍に大敗を喫してしまい、多くの兵士を犠牲にして命からがら本拠地・鄴(ぎょう)へ帰還。
曹操は曹操軍の大軍を完膚なきまでに叩いた孫呉軍の大将の調査を部下に命じます。その結果曹操軍を叩いた孫呉の大将が周瑜であることを知ると揚州(ようしゅう)の九江(きゅうこう)にいた蒋幹(しょうかん)へ「孫呉の都督である周喩を説得して我が陣営へ来るように説得してきてくれと命令。蒋幹は曹操の命令を承諾して揚州へ向けて出発します。
才気あふれ弁舌に優れた才能豊かな武将
蒋幹は三国志演義(さんごくしえんぎ)を元に書かれた横山光輝・三国志では、モブキャラのごとく描かれており周瑜の説得に失敗しておりますが、史実での蒋幹は全然違います。まず淮水(わいすい)地方で蒋幹に並ぶものがないほど弁舌に優れており、立ち居振る舞いも堂々としていたそうです。更に周瑜とは同郷の人物であり対周喩を説得する役目は蒋幹以上に適正な人物は、曹操の元にいないと言えるでしょう。蒋幹も自分の評価を知っていたため自信満々で周瑜のもとへ向かうのでした。
周瑜の元を訪れると…
蒋幹は周瑜の元を訪れるとき曹操から派遣されてきたことを周瑜に悟られないため、みすぼらしい姿で周喩の家を訪れます。周瑜は蒋幹が訪れると立ったまま迎えて「蒋幹殿、曹操の手先になって弁舌家にでもなったのですか。弁舌家になったあなたが私になにか御用でしょうか。」といきなり喧嘩腰で出迎えてきます。
蒋幹は周瑜の言葉に怒ることなく聞き流して「私は曹操殿の部下となったわけではなく旅行の途中で君のところを寄ったんだよ。君と分かれてからかなりの時間が流れており、久しぶりに君に会いたいと思ったから来たんだ。」と堂々と嘘をつきます。周瑜は蒋幹の言葉に嘘を感じながらも家に招き入れて、昔話に華を咲かせて宴会を行います。
食事が終わって話を切り出そうとすると…
蒋幹は昔話で周瑜と盛り上がって来た頃を見計らって本題を切り出そうとしますが、先に周瑜から「明日私は秘密の会議を孫権様と行わなければならない。だから君は旅館に泊まっていてくれないか。私の用事が終わったら必ず君を迎えに行くから」と述べます。蒋幹は周瑜の言葉を受けて家を出て旅館へと向かいます。蒋幹は焦ることなく旅館に戻って周瑜がやってくるのを数日間待ちつづけることになります。
駐屯地を見て回る
数日後蒋幹が泊まっている旅館に周瑜がやってきます。蒋幹は周瑜と一緒に孫呉の軍勢が駐屯している屯営地を見て回ることになります。周瑜は蒋幹と一緒に屯営地を回りながら兵数を教えてやり、兵士が訓練をしている場面も見せ武器庫も見せ何も隠すことなく全てを見せてしまいます。蒋幹は黙って周瑜の後を付いていき一通り屯営地を見終わると一緒に幕舎へ入り、幕舎で用意されていた宴会に参加することになります。
蒋幹の意図がバレていた
周瑜は宴会で蒋幹へ孫権からもらった品の数々を見せ、周瑜がどれだけ孫呉政権で重用されているかを示します。蒋幹は周瑜が孫権からもらった数々の珍宝や珍品を見せてもらい、孫呉政権にとって周喩の地位の高さを今一度確認することになります。周瑜は蒋幹がこの姿を見守っていましたが突然「男子たる者この世に生を受ければ、自分をよく知ってくれる君主を探し出して仕える事が大事なんだ。
私は今自分をよく知って理解をしてくれている君主である孫権殿と出会った。表面的には孫権殿とは君主と配下の関係だけれども、深い所では肉親と同じような関係を結んでいる。そしてこのような関係を結んだ私の意見を全て受け入れてくれる孫権殿とは、幸福な時期や辛い時期全てを一緒に過ごしていくつもりだ。もし現代に春秋戦国時代の弁舌家である蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)、劉邦配下の外交家・酈食其(れきいき)が蘇って、私に孫呉を捨てて一緒に来てくれないかと誘ったとしても私は丁重にお断りするであろう。
しかし君は蘇秦や張儀、酈食其と比較してこの三人を超えるような人ではないであろう。そんな人物の誘いを私が受けると思っているのかい。勘弁してくれ」と蒋幹が自らを登用しに来たことを知って、蒋幹の誘いを受けないとしっかりと意思表示をします。蒋幹は周瑜の言葉を聴いて大笑いして何も言わないで周瑜の元を去っていくのでした。
残念そうに頷いて諦める
蒋幹(しょうかん)は周瑜の元を去って曹操の元に報告を行います。蒋幹は曹操へ「周瑜は曹操殿の仲間になるつもりは毛頭ないときっぱりと断ってきました」と報告。曹操は「そうか」と残念そうに言葉をポツリとこぼして頷くと蒋幹を下がらせます。こうして曹操は周瑜の登用を断念することになりましたが、このお話には続きがあったのです。
周瑜を褒め称える
蒋幹は曹操の元から下がった後友人達へ「周瑜は偉大な人物だ。器の大きさも孫呉の武将の中でも一位であり、精神の高さも一番だろう。俺のような若輩者が周瑜へ言葉を尽くして曹操殿の仲間になってくれと言った所で、仲間になるはずはないな。さすが孫呉一の武将だ!!」と大いにほめたたえたそうです。
淮水の有名人であった蒋幹が周瑜を褒め讃えたことで、周瑜の知名度は曹操軍の中で大いに上がって行きます。しかし曹操軍が孫呉の武将の中で警戒しなくてはならない人物としての知名度も上がってしまうことになってしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
周瑜は江東の孫家では優秀な人材としてその名を知られておりましたが、河北や中原一帯などでは赤壁の戦い前では知られていなかったのではないのでしょうか。赤壁の戦いで周瑜率いる呉軍が大勝したことで少しは知名度上がったと言えますが、まだまだ中原や河北では無名に近い存在であったと思います。
しかし曹操は赤壁の戦いで孫呉が勝利できた原因が周瑜にあると知るとすぐに無名に近い周瑜を誘う決断を行った事については、さすが三国志一の人材マニアで優秀な人材好きの曹操と言えるでしょう。もし周瑜が曹操の誘いに乗って配下になった場合どうなっていたのか。曹操軍は優秀な参謀兼将軍・周瑜を手に入れたことをきっかけに、天下統一を果たすべく再び孫呉へ攻撃を仕掛けたと考えられます。孫呉は周瑜に代わる将軍や智謀を持った人物がいないため、曹操にあっけなく降伏したのではないのでしょうか。
孫呉が曹操に降伏した場合、残る勢力(劉備・劉璋・馬騰)を軽々と討伐して天下統一していたとレンは考えます。上記のように推測した場合曹操の誘いを突っぱねた周瑜によって孫呉の勢力が保たれ、天下統一をかけた戦いが曹操と周瑜の間で、繰り広げられたと言ってえるのではないのでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志呉書 小南一郎著など
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