涼州(りょうしゅう)は黄巾の乱が勃発後から後漢王朝に反旗を翻します。この時、韓遂(かんすい)も後漢王朝に反旗を翻します。その後彼が起こした反乱は漢軍によって討伐されてしまいますが、彼はあきらめず幾度も反乱を起こし、独立を図ろうとします。今回は亡くなるまで戦い続けた不屈の反骨心を持った男・韓遂(かんすい)を紹介します。
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初めての反乱に参加
後漢帝国は政治の腐敗によって民衆が反乱を各地で起こします。この反乱の最大の物は黄巾の乱です。この乱が勃発すると中原は大いに混乱し、乱れていきます。黄巾の乱がおきた際に涼州の端っこにいた盗賊達が一斉に反乱を起こします。この盗賊達は漢に従属していた異民族出身の将軍である北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)を擁します。また知恵者として知られていた韓遂もこの反乱に軍師として迎えられます。こうして韓遂は初めての反乱に加わることになります。
涼州全域を巻き込む反乱に拡大
韓遂は軍師として的確に助言を行い、各地の城を次々と陥落させて領土を拡大。こうして涼州全域を手中に収めると、この反乱軍は隣の雍州へ攻め込み、雍州の大半を領地に治めた後、長安を目指して進軍を開始します。
後漢王朝は黄巾の乱を平定後、涼州・雍州の二州を手に入れて、勢いに乗っている反乱軍を鎮圧するため、皇甫嵩(こうほすう)と董卓(とうたく)に大軍を与えて反乱軍の鎮圧へ向かわせます。しかし反乱軍は韓遂の適切な助言や兵士一人ひとりの強さが圧倒的で、皇甫嵩と董卓率いる漢軍を各地で破り大勝利をおさめます。
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漢軍の大軍に激闘の末敗れる
漢軍は再び数十万の兵を結集させて、反乱軍に決戦を挑んできます。韓遂や北宮伯玉ら反乱軍も数十万の兵を集めて漢軍を迎え討ち、激しい戦を繰り広げます。反乱軍は漢軍に甚大な被害をもたらしますが反乱軍は敗北。韓遂は雍州の金城へ退却し、北宮伯玉らも雍州近辺に退却します。
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籠城戦で漢軍に勝利
韓遂は漢軍が来ると金城で徹底的に抵抗します。激戦が続くこと数十日、北宮伯玉が漢軍の補給を断ち切ることに成功した事で、漢軍は金城から退却していきます。別動隊を率いていた董卓軍も羌族(きょうぞく)が輸送路を切断したことで、こちらも戦いを続けることができなくなり、退却していきます。こうして野戦では敗北しましたが、雍州から漢軍を退かせることに成功します。
内輪揉めが勃発
涼州の反乱はこうして鎮圧することができず、ますます勢いが広まっていきます。そんな中今後の意見の食い違いなどが原因で内乱が勃発。軍師であった韓遂は北宮伯玉と反乱軍の将を殺害して、彼らが擁していた兵を吸収し、本拠地を金城から南下した隴西へ移し、独立を果たします。
馬騰(ばとう)と義兄弟の契りを交わす
韓遂はその後、隴西を中心に雍州各地で暴れまわります。ある時、韓遂は大軍を率いて雍州の城を包囲。この時、漢の役人であった馬騰(ばとう)が城内で反乱を起こし、城主と役人らを殺害します。そして城門を開いて、韓遂に降伏を申し入れます。韓遂は背が高く、筋骨隆々とした偉丈夫である馬騰を気に入り、馬騰と義兄弟の契りを交わします。
董卓の呼びかけに応じる
董卓は洛陽に入城し、後漢王朝の政権を握るとやりたい放題やり始めます。董卓の政権の私物化に怒りを感じた天下の諸将は、連合軍を結成し董卓打倒の兵を挙げます。董卓は連合軍を迎撃するために配下の諸将に命令を下すと同時に、漢の都であった洛陽を燃やし、長安へ遷都します。この時雍州で猛威を振るっていた韓遂と馬騰に手紙を送り
「いつまでも賊軍では面白くあるまい。私の元へ来て共に政権に参画しないか。」と勧誘します。韓遂と馬騰は董卓の呼びかけに応じて、軍勢を引き連れて長安へ向かいます。
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