三国志でも最強であった魏(ぎ)。
三国の中で一番大きな土地と優秀な将軍・政治家・軍略家など多彩な人材を持っていたにも
関わらず、司馬家に乗っ取られて滅亡してしまいます。
なぜ魏は滅亡することになったのか。
魏を建国した曹操(そうそう)から順に追って、滅亡の原因を探っていきたいと思います。
この記事の目次
生涯のほとんどを戦に明け暮れた英雄・曹操
曹操(そうそう)は三国志最大の地域を領有した魏の国の基礎を作り上げた人物です。
しかし彼は最初から三国時代の魏の領土を持っていたわけではなく、
数々の厳しい戦を潜り抜け、魏の領土を作り上げます。
彼は黄巾賊討伐戦で初陣を飾り、その後は董卓討伐戦や呂布との戦い、
宛(えん)城の戦いなど多くの戦いに自ら出陣します。
その中でも魏の国を作り上げることに成功した戦いは2つです。
一つ目は青州黄巾賊を配下に加えた事です。
最弱から至強へ
曹操が三国一の領土を持つことができた理由のその1として、
青州黄巾賊を配下にしたことです。
彼は青州黄巾賊を配下に加える前は、兵士の数も他の群雄と比較したら微々たるもので、
弱小と言っても過言ではありませんでした。
そんな彼が総勢100万と言われる青州黄巾賊へ果敢に戦を挑み、
命を危機に瀕する場面が何度もありながら、何とか黄巾賊に勝利を得ることに成功します。
この時曹操は青州黄巾賊を全滅させるのではなく、
兵士を選び精鋭の黄巾兵を自らの軍団に加えます。
その数は何と10万とも20万とも言われている兵士の数を味方に付けます。
こうして曹操は青州黄巾賊を味方に付けた事で、他の群雄から抜きんでることに成功し
三国志一の領土を持つ魏の建国ができたといっても過言ではないでしょう。
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ライバル袁紹との戦い
曹操は青州黄巾賊を味方に付け、各地に群雄を滅ぼしたり味方に付けたりしながら、
領土を拡げていきます。
そしてついに彼の最大のライバルである袁紹と決戦する時がやってきました。
袁紹は曹操の幼馴染でありながら、河北と言われる中国の北方に拠点を作ると、
河北にいる群雄を倒して、領土を大きく伸ばしていきます。
そして河北統一を果たすと袁紹は、幼馴染である曹操を倒そうと決意し、
大軍で曹操の領地に攻撃を仕掛けてきます。
対する曹操は袁紹と比較すると領土も少なく、兵士も少なく、兵糧も少ない状態で、
袁紹に勝てる要素はほとんどありませんでした。
そんな中袁紹が曹操の領地に攻撃を仕掛けてきたため、
彼も軍を北上させて袁紹軍と必死に戦います。
曹操は袁紹軍の圧倒的物量による絶え間ない攻撃を目にした時、
軍師である荀彧(じゅんいく)に「袁紹の軍勢強すぎて、勝てないよ。」と
泣きついたほど圧倒的戦力差がありました。
しかし曹操は荀彧の激励や配下の将軍達の支えもあって、
何とか袁紹との戦いを続けていきます。
ライバル袁紹を倒す
曹操はこうして袁紹の攻撃を耐えていると最大のチャンスが巡ってきます。
袁紹軍から曹操軍へ寝返ってきた文官が、袁紹軍の兵糧のありかを教えてくれるのです。
曹操はこの文官の情報を信じて、袁紹軍の兵糧倉へ自ら兵を率いて攻撃を仕掛けます。
この攻撃は見事に成功して袁紹軍の兵糧を焼き払い、袁紹軍に勝利することができました。
この戦いに勝利した事で、曹操の領地は一気に飛躍し、袁紹に勝利した1年後には
河北全土を統一。
この戦いに勝利した事が三国一の領土を有することになった大きな原因その2であると
考えます。
こうして曹操は三国志一の領土を持つことに成功し、軍備と政治を整えていきながら、
残った群雄に対して戦を行っていきます。
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三国一の領土を持ちながら常に前線で戦い続ける
曹操は袁紹を倒し三国最大の勢力となった後も、自ら兵を率いて戦いに明け暮れます。
江東の孫家を倒して天下統一を行おうと試みるも、赤壁の戦いで大敗北。
赤壁の戦いで敗れた後も西涼(せいりょう)で反乱を起こした馬超討伐戦に出陣したり、
夏侯淵(かこうえん)が敗れた事で、漢中が危機に陥ると自ら大軍を率いて劉備と戦ったりと
一つの場所で政治を行う事はせず常に前線に出て戦いを続けていた武将でした。
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