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人材集めも熱心に行っていた
曹操(そうそう)は常に前線に立って戦に明け暮れておりましたが、
彼は戦に強いだけではなく、熱心に人材を集めておりました。
弱小と言われていた頃から常に人材を集めており、彼が集めた人材は多くおりました。
彼が目を付けた人材は兵卒からでも幾度か試して、優秀であれば将軍にしたり、
文官で優秀であればすぐに大きな権力を与えて、
政治に参加させたりと優秀な人材であれば格式にこだわりませんでした。
そのため彼は「求賢令(きゅうけんれい)」と言われる法律を制定します。
この法律は殺人者や強盗犯などの犯罪者や人格に問題のある人物でも能力さえあれば、
官に仕える事ができるものです。
この法律を制定した事で多くの人材が彼の元に参集し、
魏の基礎を作っていく事になります。
農業改革その1
曹操軍は他の群雄と戦いに明け暮れて、三国志最大の領土を作る事に成功しました。
この原因は青州黄巾賊を味方に付けた事と曹操のライバルであった袁紹を打倒した事が、
大きな原因ですが、これだけではありません。
戦いを起こすには兵糧が無くてはできません。
しかし当時の群雄は他の群雄の領土を侵して現地で兵糧を調達するか、
農民が一生懸命に育てた作物を強奪して兵糧に充てるかしかありませんでした。
そこで曹操は他の領土へ侵攻して現地で兵糧を調達せず、
また農民から兵糧を強奪しないで兵糧を得る方法を家臣に考えさせます。
曹操から命じられた家臣は一生懸命考え抜いて得た結論は、
戦によって荒れ果てた農地へ流民などを移住させて耕させる方法です。
曹操はこの方法を採用すると、瞬く間に兵糧倉はいっぱいになっていきます。
この農業の改革によって曹操軍は兵糧不足に悩まされることが極限に減り、
戦を有利に進めていく事になります。
労働力確保の為の政策
三国時代は中国の人口が減少し、労働力の確保が難しい時代でした。
その原因は群雄同士が戦ったことが原因です。
そのため曹操は労働力を減少させないように、
群雄との国境に近い場所には民衆を住まわせず、領土の内部に移住させておりました。
この政策は労働力を確保するためという理由と敵に魏の領土が攻撃を受けた際に、
城内にいる民衆が敵の謀略に乗せられて内応し、
領土が奪われないようにするする為の防止政策でもありました。
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まだまだいっぱいある曹操が打ち出した政策
曹操は上記の政策以外にも色々な政策を打ち出しており、
地方に権力を分散させずに自らの権力を強化することで、
朝廷内の組織において権力を強化や曹操が出した命令が官僚や将軍達へ
スムーズに伝えられることなどを目的として、漢以来の三公(司空(しと)・司徒(しくう)・太尉(たいい))
の役職を廃止させます。そして新たな官職として曹操が制定したのは、
丞相(じょうしょう)と御史大夫(ぎょしだいふ)の官位を復活させる事で、
中央(曹操に)に権力が集まる仕組みである「中央集権制」敷きます。
また税収の方法を改革し、民衆にお金のみを税の対象とするのではなく、
お金と加工品(絹・綿)などを組み合わせることによって税を徴収していきます。
この税収方法は唐の時代にまで続く事になる当時としては画期的な税収制度でした。
このような政策を数々と打ち出していく事で魏の国はより強固になって、
魏の国の基礎が出来上がっていく事になります。
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後世に多大な貢献を残す
曹操は政治・軍事と忙しい毎日を送っておりましたが、そんな忙しい日々の時間の合間を縫って、
後世に残る貢献するものを作っておりました。
それは「孫子の兵法書」を読んで、自らが編集した「魏武注孫子(ぎぶちゅうそんし)」なる物を
製作しておりました。
この書物は曹操が孫氏を自分で編纂した書物で、
現在伝わっている孫子の兵法書はほとんどが亡くなってしまった為、
曹操が書いた魏武注孫子が主流として出回っております。
他にも自らが詩を作る事が好きであった事がきっかけで、
詩を保護した事で後世の科挙制度などに大いに影響を与える事になります。
こうして色々な物を後世へと残し、魏の国家の礎を作っていくのですが、
彼も病と老いには勝てず少しずつ弱っていく事になります。
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曹操最後の戦【樊城救援戦】
曹操はこのような政策と自ら戦に出て勝ち続けたことで、魏の基礎が固まっていきます。
しかし彼も老いには勝てませんでした。
そんな彼の最後の戦は樊城救援(はんじょうきゅうえん)戦です。
この戦いは彼自ら戦に出陣しておりませんが、
彼が一生懸命作った魏の基礎が壊れる寸前まで追いつめられた戦いでした。
この戦いは劉備軍の関羽(かんう)が魏の領土である荊州を奪うために行われた戦いです。
関羽の軍勢は精鋭で、魏の領土はあっという間に次々と陥落させられ、
魏の荊州地方最大の要衝である樊城も陥落寸前に追いつめられます。
曹操は于禁(うきん)や龐徳(ほうとく)を援軍として向かわせますが、関羽軍の攻撃に敗退し、
于禁は捕虜となってしまいます。
さらに関羽軍の北上に合わせて曹操の領土で、反乱が勃発。
曹操はこの状態に危機感を感じて、首都移転も考えておりましたが、
司馬懿(しばい)や蒋済の説得によって何とか首都移転を止める事にします。
その後徐晃に軍勢を与えて再度樊城へ救援に向かわせ、呉軍が魏と同盟することで、
関羽軍の背後をついた事でこの戦は乗り切る事ができます。
こうして曹操最後の戦で最大の難関であった樊城救援戦は幕を閉じる事になります。
曹操も老いには勝てなかった
樊城(はんじょう)の戦いが終結すると曹操(そうそう)は一安心したのか、
以前から悩まされていた病が再び彼の体を襲います。
彼は名医と呼ばれる医者達を呼び、手を尽くさせますが彼の病を治せるものは現れず、
ついにその命が尽きようとしておりました。
細かい遺言を息子達に残す
曹操は自らの死期を悟ると、遺言を書き始めます。
彼が書いた遺言には「私の死後、私の死体に金銀財宝を入れるのを止めよ。
また天下は統一されたわけではない為、
前線にいる諸将は任地を離れずにしっかりと守れ」と諸将に対して、
しっかりと遺言を残しております。
また息子達へも遺言を残しております。
曹操は息子達へ「軍の規律を守らせるやり方は、
俺のやり方をまねてやれば大きな失敗を起こすことは無いだろう。
しかし俺失敗したやり方は決してまねるな」と息子達へ軍の規律や
自らの失敗をまねるなと注意を促しております。
愛妾達への遺言も忘れずに残す
また自らが抱えた側室達にも遺言を残しており
「残された側室達には平等に香を分け与えよ。また仕事の無い側室達には、
履の紐を編ませて仕事にせよ。」と自らの死後、
側室達への配慮も怠らずにしっかりと目を配っておりました。
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色々な遺言を残して魏王曹操は亡くなる
このように自分の死期を悟った曹操は息子達や将軍達、妻、側室達など多くの人々へ
遺言を残して亡くなります。
正史「三国志」を書いた陳寿(ちんじゅ)は、曹操の事をこのように評価しております。
「歴史上の人物は数多くいるが、彼のように才能にあふれ人物は時代を超えた英雄である」と
三国志に記載しております。
そして曹操の死後は長男である曹丕(そうひ)が跡を継いで、魏の領土発展に大きく貢献していく事になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
曹操は陳寿が評価を下した通り、三国志より以前の名君や三国志以降の名君と言われる人達と比較しても、
十本の指の中に入るくらいの英雄であったのではないのかと私は思います。
また彼がいたからこそ他の群雄(袁術を除いて)は皇帝になる事が出来なかったと言えるでしょう。
もし曹操が居なければ三国になる事は出来なかったでしょう。
また群雄達はさっさと漢の皇帝を殺して、色々な所で様々な群雄達が好き勝手皇帝を名乗り、
中華の情勢はまとまる事ができずに非常に混乱した状態が続いていた事でしょう。
この英雄の跡を継いだ曹丕はどのようにして、魏の領土を発展させていくのでしょうか。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~」