李靖(りせい)とはどんな人?曹操と孔明の二人から学んだ初唐の名将

2016年10月15日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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曹操 機密保持

 

三国志の天才軍略家としてその名を馳せた名将曹操(そうそう)。

彼は戦いにおいて8割以上の勝率を誇った武将です。

また蜀の諸葛亮も色々な兵法を読んで、

戦が不得手であった部分を補おうと努力を行います。

そんな三国志きっての優秀な人物二人の実績から学んだ武将が唐の時代におりました。

その名を李靖(りせい)と言います。

彼は曹操からは騎兵の運用術を学び、

孔明からは戦術における兵の配置である陣形を学び取ったそうです。

今回は三国志きっての有名人二人から学んだ名将李靖についてご紹介しましょう。

 

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兵法が大好きで研究に没頭する毎日

李靖

 

李靖は父や兄が隋(ずい)王朝の高官としてその名を知られていることから、

父と兄同様に科挙の試験を受けるために必死に勉強して役人への道を進んでいくことになります。

毎日必死に勉強したおかげで、超難関である科挙の試験を受けて見事合格。

その後地方役人として配属され、勤勉に仕事に励んでいきます。

 

 

 

舅の影響を受けて兵法研究に熱中

兵法研究に熱中

 

李靖は舅に韓擒虎(かんきんこ)と言われる人物がおりました。

彼は隋の天下統一戦に大いに功績を残し、

名将としてその名を天下に轟かせており、

兵法の研究者としてもその名を知られておりました。

李靖も舅の韓擒虎の影響を受けて、

仕事が終わると家に引きこもって毎日兵法の研究をしておりました。

この兵法の研究が後年彼にとって大いに役に立つことになります。

 

隋王朝に忠誠を尽くす

 

李靖は兵法の研究に勤しんでおりましたが、

隋の皇帝である煬帝(ようだい)の時代になると

天下は大いに荒れ始め、地方で煬帝の政治に不満を持った人々が次々に反乱を起こし、

危機的な状況になっていきます。

そんな中、彼も友達等から「隋はもうダメだ。一緒にこの国を打倒しようぜ。」と

誘われた事がありましたが、彼はきっぱりと誘いを断り、

「私は隋に忠誠を尽くす。反乱を起こすことは私にできない。」と強い語調で切り返します。

こうして隋王朝にあくまでも忠誠を尽くしておりました。

 

上司の反乱計画を知り、皇帝に知らせようとするも…

 

李靖の上司である李淵(りえん)が隋王朝を見限って反乱を起こそうと企みます。

このことを知った彼は李淵の反乱を皇帝に知らせようとしますが、

彼も自らの計画を失敗に終わらせたくは無い為、警戒心を強めておりました。

また皇帝は首都にはおらず、江都(こうと)と呼ばれる都市に居たため、

そこへ向かうことができませんでした。

しかし江都へ囚人が贈られるとの情報を得ると彼らに紛れて江都へ向かおうとしますが、

この時に上司であった李淵に見つかってしまい捕えられてしまいます。

 

捕らわれの身でありながら説教をする

 

李淵は煬帝に反乱計画を通報しようとたくらんでいた李靖を引き立てるとすぐに処刑しようと

しますが、刑を執行される前に李靖が大声で李淵を怒鳴りつけます。

彼は「あんたは隋の乱れた政治を正すために挙兵するのであろう。

であるならば隋に忠誠を尽くしている臣をあんたの私怨で殺すとはどういう了見だ。」と

説教をします。

この話を聞いていた李淵の次男である李世民(りせいみん)は大いにこの言葉に感心し、

父である李淵に「父上。あの方の申す事筋が通っております。

彼の命を助けて私の配下として仕えさせたいのですが、よろしいですか。」と

李靖の命を助けるように懇願します。

次男の意外な助命嘆願に驚いた李淵ですが、

李世民のいう通り李靖の言う事も一理あると感じ、

李靖の命を助けて李世民に仕えるように命令を出します。

こうして李靖は命を助けられ李世民という新たな主君に仕える事になるのですが、

彼と出会ったことで李靖は人生を大きく好転することになり、

青年期から趣味であった兵法研究が役に立つことになります。

そして李世民が建国した唐と言われる新王朝の功臣の中で筆頭武将として、

中国史にその名を残すことになります。

 

李世民と共に各地を転戦

 

李靖(りせい)は李世民の配下として彼に仕えることになると、

李世民と共に各地を転戦します。

彼は青年期に兵法の研究を熱心にやった結果がここで現れ、

隋(ずい)末期に出現したあまたの反乱勢力を研究した

兵法に応用を加えた用兵術を駆使して、平定します。

こうして彼や秦瓊(しんけい)、

尉遅恭(うっちきょう)らの名将たちの活躍によって、

乱れていた中華は統一される事になり、

唐の天下統一が完成することになります。

 

 

 

最強異民族突厥の攻撃

 

突厥(とっけつ)は中国の長城北部に強大な勢力を誇っていた異民族です。

彼らは一時期中国の統一王朝と同じくらいの領土の大きさを誇っておりましたが、

その後東と西に分裂することになります。

東突厥は唐へ幾度も侵攻を行い、略奪を働いていきます。

唐を建国した李淵は、突厥が中華に侵入してくるたびに軍勢を出撃させて、

撃退しておりましたが、撃退されても突厥は懲りずに何度も侵攻してきます。

その後唐の2代目皇帝となった李淵は李靖に命じて、突厥討伐を行わせます。

李靖は突厥討伐の為、5万の兵力を率いて出陣します。

 

 

 

奇襲作戦で突厥を蹴散らす

 

李靖は突厥の領地に進んでいる間、

東突厥の内情や文化、戦術など色々な情報を

かき集め、取捨選択して情報を整理しながら進軍を行っていきます。

情報の整理が終った李靖は軍団のすべてを配下の将軍に任せて、

自らはたった三千の兵力で雪の中にある突厥の本陣に向かって出陣。

そのまま突厥の本陣の奇襲に成功します。

その後東突厥の有力な将軍である康蘇密(こうそみつ)へ離間の計を仕掛け、

彼を唐に降伏させることに成功。

東突厥の当主であった頡利可汗(けつりかがん)は、

康蘇密が唐に降ったことで、東突厥の内陸部へ逃走することになります。

そして東突厥は領土縮小により、唐と戦い続けることに無理を感じたため、

唐へ降伏することになります。

 

東突厥を滅亡させる

 

皇帝である李世民は李靖の活躍を大いに喜び、

彼へ突厥に対する外交の全権を与えます。

李靖は突厥に対する外交の全権を任せられると、

降伏してきた東突厥に対して、大軍で攻撃を仕掛けます。

この攻撃によって東突厥の大半は討ち滅ぼされることになり、

東突厥はついに滅亡することになります。

 

吐谷渾討伐戦

 

吐谷渾(とよくこん)は唐と仲良くしておりましたが、

突如唐から派遣した使者を殺害し、反旗を翻します。

吐谷渾の反旗を知った李世民は、名将である李靖に討伐戦を任せようと考えますが、

彼はかなりの歳であったため、他の者に任せようと考えます。

李靖は自分が歳をとっている事が原因で戦を任せられないと言うことを人伝から聞くと、

すぐに李世民の元へ行き「陛下。私は歳をとっていたとしても、

この智謀が錆びることはありません。ぜひ私に吐谷渾討伐に行かせてください。」と

懇願します。

この李靖の懇願を聞いた李世民は、李靖に吐谷渾討伐へ行くように命令を出します。

こうして李靖は最後の戦である吐谷渾討伐戦へ赴くことになります。

 

伏允の焦土作戦

 

吐谷渾の軍勢を率いていた伏允(ふくいん)は、

唐から来た討伐軍の大将が李靖である事を知ると

すぐに退却するように諸将へ命じます。

この時に伏允は、駐屯していた牧草地帯を燃やしてから撤退を行います。

この状況を見た唐の吐谷渾討伐軍に参加していた諸将は、

軍議の席で「総大将。牧草が全て焼き払われてしまっては、

馬に餌を与えることができません。

馬に餌を与えなくては、吐谷渾の領地へ攻め込むことは困難を極めることでしょう。

そのため牧草地帯に草が生えてから進撃するべきだと考えます。」と進言されます。

しかし李靖は、諸将の進言を取り上げずに進言する決意を固めます。

その理由は「牧草地帯に餌がなくて、困難を極めるのは敵も一緒である。

そのため今こそ敵陣へ攻撃を仕掛けるべきだ。」との理由を諸将へ説明し、

吐谷渾の領地へ向けて進軍を開始します。

こうして退却している伏允の軍勢に襲い掛かり、なんとか殲滅することに成功。

こうして吐谷渾は滅亡することになり、西域と交流する道が開かれることになります。

戦がなくなってからは李靖は唐の宰相として国政を見ることになり、

政治の場でも活躍していくことになります。

 

李靖が得意とした騎兵運用術

李靖(りせい)は騎兵の運用を得意としており、

その中でも特に得意であった攻撃方法は、

突厥や吐谷渾の戦いで使用していた騎馬による長距離奇襲戦法

(ちょうきょりきしゅうせんぽう)です。

彼は奇襲攻撃を仕掛ける前にまず敵の逃走経路を綿密に調査してから、

敵が使うであろう逃走経路を予測してその場所に伏兵を設置。

その後自ら精鋭騎馬隊を率いて敵に対して、奇襲を敢行。

敵が大混乱をきたして慌てて撤退しているところへ伏兵で攻撃を仕掛け、

追撃軍との挟撃によって殲滅する戦法をとっておりました。

この戦法は国内統一戦ではあまり使うことはありませんでしたが、

突厥(とっけつ)や吐谷渾(とよくこん)などの騎馬主体の遊牧民族との戦い方を研究した結果、

編み出されたものです。

 

 

 

長距離奇襲作戦を用いて、異民族との戦いで連戦連勝

 

李靖が編み出したこの戦法は遊牧民族達との戦いのおいて非常に有効であり、

この戦法を用いて連戦連勝を重ねていきます。

しかしこの戦法の非常に難しいところは敵の逃走経路を事前に、

察知しておかなければならないところです。

奇襲作戦に成功しても敵の逃走経路の予想が外れてしまえば、

騎馬の扱いに長けている遊牧民族達は一目散に逃走してしまいます。

そのためこの伏兵の設置が奇襲作戦の肝と言える部分なのですが、

李靖は敵の逃走経路の予想を外さずに伏兵と奇襲をかけた部隊との挟撃を外すことなく

成功させます。

なぜ彼は敵の逃走経路を知ることができたのでしょうか。

それは緻密な上に何度も繰り返して、

敵陣と敵が逃げる際の癖を調べ尽くしたからではないでしょうか。

もう一つの理由としては、青年期から読みあさって研究した兵法が、

役に立ったのでないのでしょうか。

彼が読んだ本の中には漢の武帝の時代に匈奴討伐戦で活躍した

衛青(えいせい)などの実績が記されている史書なども当然あったと思われるので、

この本を読んだことで、

遊牧民族の癖を知ることができたことも理由の一つ

として考えられるのではないのでしょうか。

とにもかくにも当時の時代においてこれほど敵の逃走経路に伏兵を置き、

何度も成功した人物は彼一人といっても過言ではありません。

 

 

 

騎兵の運用術は曹操から学ぶ

曹操 真田丸

 

さて李靖は騎兵の奇襲攻撃を得意としておりましたが、

一体どうやってこの戦法を思いついたのでしょうか。

それは三国志の英雄のひとりである曹操が書いた「魏武註孫子」などの兵法書から

彼の騎兵運用術を学び取ることで、思いついた作戦です。

曹操も鳥桓族討伐戦の時に騎兵を長駆させて、

敵の本陣に切り込むことで鳥桓族の討伐に成功した実績を持っております。

李靖も曹操のこの実績などから騎兵の運用術を学び取り、

突厥討伐戦や吐谷渾討伐戦に応用したのではないのでしょうか。

 

国内平定戦で使用した陣形は孔明から学び取る

孔明 出師

 

さて国外の戦いである異民族との戦いでは、騎兵を主体とした戦いであったため

曹操の騎兵運用術を用いて戦い抜いております。

しかし歩兵が主体の国内の戦いでは、陣形が非常に重要になってきます。

李靖はこの歩兵の陣形においては、三国時代蜀の名宰相で知られた諸葛孔明から

学び取ったとされております。

彼は歩兵主体の国内統一戦において、六花の陣と言われる陣形を組んで何回か

戦って勝利を収めておりますが、

この「六花の陣」は孔明が使ったことのある「八陣の陣」を応用したものとされております。

ほかにも「孫子の兵法書」を応用した戦い方や呉子などの兵法書を研究したことで、

色々な戦い方を身につけたのでないのでしょうか。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

今回は唐の時代の武将を紹介しました。

李靖はその後も名将として中国で語り継がれる人物ですが、

彼が名将となることができたのは、

三国志の曹操や孔明などの戦法や陣形などを駆使したことなどが原因となっています。

唐の時代に生きた人々にも三国志の影響を受けていたので、

記事を書いていて大いに感慨深い物を感じました。

「今回の唐の時代のお話はこれでおしまいにゃ

じかいもまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃぁまたなにゃ~」

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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