日本の歴史上で有名な電光石火の行軍といえば、
豊臣秀吉の「中国大返し」でしょう。
悪天候のなかで一日に70㎞を踏破したと伝わっています。
これによって、時間さえあれば万全の準備ができたであろう
明智光秀は思惑が外れて敗戦することになります。
このように戦では「時間」が勝敗を決めることもあるのです。
ただしこのときの豊臣秀吉はただやみくもに駆けたわけではありません。
備中高松城から姫路城まではひたすら駆けに駆けていますが、
姫路から山崎までは斥候を放って慎重に行軍しています。
速さだけの進軍であれば、それだけ隙も大きくなり、
敵の伏兵の迎撃をまともに受けて甚大な被害をこうむる可能性が出てきます。
仮に速さを追及せずとも油断をした行軍をすると
「桶狭間の戦い」の今川義元のように壊滅的なダメージを負うこともありえるのです。
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司馬懿の電光石火
三国志の戦いのなかで「時間」がものをいったのが司馬懿の西暦228年の新城郡攻めです。
当時、魏領であった新城郡の太守は孟達が務めていました。
孟達(もうたつ)は蜀を裏切り魏に取り入った外様でしたが、
曹丕(文帝)に気に入られて出世した男です。
曹丕が死んでからは肩身が狭くなり再度裏切りを謀ります。
それが蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)への内応でした。
内応を決めたのが西暦227年の12月。司馬懿が孟達を斬ったのが西暦228年の1月のことです。
孟達は敵軍が到着するのに一ヶ月はかかると踏んでいましたが、
司馬懿はそれを八日の強行軍で急襲し、孟達は守りを固めきれませんでした。
甥の鄧賢と配下の李輔に裏切られて十六日で城を落とされてしまうのです。
孟達はそのまま斬首されました。
司馬懿の行軍がもう少し遅かったら、孟達への蜀からの援軍も間に合っていたかもしれず、
蜀の北伐は成功していたかもしれません。
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時間の感覚に鋭い司馬懿
軍師連盟の主役である司馬懿は日ごろ慎重な男ですが、
ときに凄まじいまでに迅速な行動を起こします。
孟達を攻めたときもそうですし、西暦249年1月のクーデターの際も同様です。
政敵である曹爽が参拝のために城を出たとみるやすぐに兵をあげ、
皇太后の命令と称して城門を閉じて曹爽を罷免する上奏文を発表したのです。
曹爽はあっさりと投降し、曹爽一派は根絶やしにされました。
敵の油断を突き、電光石火の如く攻め込むのは司馬懿の十八番なのかもしれません。
もちろん、それだけの緻密な計算と確固たる覚悟がなければ成功に導けない芸当です。
このように「時間」というものを有効的に活用できるのも司馬懿の強みといえます。
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緩急をつけることのできる司馬懿
司馬懿はやみくもに強行するわけではありません。
諸葛亮孔明と対峙した西暦234年の第六次北伐の際には約百日間守勢に回って沈黙を貫いています。
この「五丈原の戦い」では婦人物の衣服を送って
挑発してくる諸葛亮孔明に対し、陣を固めじっと耐えているのです。
また西暦238年の東征の際には時間をかけています。
反乱を起こした公孫淵を攻めて約七カ月の期間の末に公孫氏を滅亡させています。
このときの司馬懿は焦ることなく行軍し、じっくりと敵を包囲して襄平城に追い込みました。
状況に応じて臨機応変な兵の動かしが司馬懿にはできるのです。
これこそが軍師連盟の主役・司馬懿の真骨頂でしょう。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
司馬懿は「勝つためには何が一番の得策なのか」の判断が的確です。
これは、相手を出し抜き打ち破るためにはとても大切な能力といえます。
そこには忠も義もなく、冷徹なまでの計算があるだけです。
司馬懿が人間としてあまり後世のひとに好かれていないのはそのためかもしれません。
そんな司馬懿を軍師連盟ではどんな魅力的な人物として描かれるのか楽しみですね。
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