郭嘉(かくか)、字は奉孝。
潁川郡の出身ですが、先祖についてはよくわかっていません。
西暦190年3月に献帝を擁護し政権を独占していた董卓が長安に遷都します。
このとき、潁川の名家・荀氏の一族を束ねる荀彧(じゅんいく)が
村人たちを集めて故郷を捨てて避難することを説きました。
ちょうど潁川出身の権力者である冀州の牧・韓馥からの使者が募兵している最中だったので、
荀氏の一族はもちろんのこと、隣県にいる辛評や辛毗、郭図や郭嘉らが冀州に移り住みました。
潁川の麒麟児
その後、北の公孫瓚の脅威の前に、
辛評や辛毗、郭図は冀州を袁紹(えんしょう)に譲るべきだと
韓馥に持ちかけて交渉を成立させています。
袁紹の勢力は飛ぶ鳥を落とす勢いで大きくなっていきました。
逆に郭嘉は袁紹の人となりを観察し、仕官すべき主ではないと判断。冀州を去りました。
郭嘉は常識やルールに縛られない性格の持ち主で、
能力を認めた相手にしか敬意を払わなかったと云われています。
ただ、郭嘉の先を見通す力は天下一品のものがありました。
曹操という主を得た郭嘉は水を得た魚のようにその才能をいかんなく発揮していくことになるのです。
そして天下の形勢は彼が思い描いていたように変化していきます。
劉備に対する評価
郭嘉の劉備に対する評価は高いものがあったようです。
曹操のもとに逃げてきた劉備をかくまうかどうかの選択を迫られたときには、
劉備の名声を鑑み曹操の評判が落ちることを懸念しています
(その脅威を取り除くべく殺害を提案したという話もありますが)
南の袁術に向けて劉備を差し向けることになった際には、劉備の裏切りを懸念した提案をしています。
殺すのはまずいが、手元から手放すのもまずい。それが郭嘉の劉備に対する評価です。
特に劉備に魅力を感じていたわけではなさそうですが、
それなりに危険視していたのはさすが郭嘉といえます。
もし曹操への仕官の前に劉備に出会っていたら
必ずしも名士に仕えたいという願望があったわけではない郭嘉ですから、
曹操に出会う前に劉備に出会っていたら、その軍師として仕えていたかもしれません。
ただしこの頃の劉備の器量で郭嘉の才を生かせたかどうかは微妙です。
郭嘉の策に対して、生え抜きの家臣である関羽や張飛は真っ向からぶつかったかもしれません。
ただし、郭嘉が関羽や張飛らとも良好な関係が作れていたとしたら
劉備軍は相当なパワーアップをしていたことでしょう。
先手を打つことに関してはあの曹操をも凌ぐ郭嘉ですから、
劉備の勢力拡大に大きな影響を与えたに違いありません。
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徐州を本拠地に勢力拡大をする劉備
おそらく転機は劉備が陶謙の後を継ぎ、徐州牧になったあたりだと思われます。
- 呂布に徐州を奪われることはなかったはず。
- 孫策の離反を予測して袁術の討伐に成功。
- 曹操と手を組み袁紹を圧倒。曹操は河北を制し、劉備は揚州、荊州まで領土を拡大。
- 西の馬騰と結んで曹操を挟撃。中原から河北までにも領土を拡大。実質、天下を獲る。
もちろん郭嘉ひとりの力でここまで話が上手くいくのは考えにくいかもしれませんが、
将来を見通し布石を打ち、知略では曹操を凌ぐ郭嘉がいるわけですから、
そのアドバイスを素直に聞いていたら劉備は早い時期に曹操を滅ぼしていたかもしれないのです。
劉備の失敗続きの半生の原因は、先を見通すことのできる人材が陣営に皆無だったことです。
その大きな穴を郭嘉は確実に埋めることができたはずです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
ただし郭嘉は早死にします。
38歳と云われています。赤壁の戦いの前年のことです。
タイミング的にはちょうど劉備が三顧の礼を尽くして
諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を招いた時期にあたります。
郭嘉→諸葛亮孔明へのバトンタッチ。まさに最強のリレーといえるでしょう。
「軍師連盟」の主役である司馬懿(しばい)ですらつけ入る隙がなかったのではないでしょうか。
そして郭嘉は何気に人脈があり、さらに引き抜きの腕前も抜群です。
劉備の幕舎にはさらに多くの才能あふれる人材が集まっていたに違いありません。
諸葛亮孔明が劉備の旗下に加わったときには凄いメンバーが揃っていたことでしょう。
郭嘉が劉備の軍師を務めていたら「三国志」は成立しなかったかもしれませんね。
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