大相撲と言えば、現在の日本ではモンゴル勢が大活躍していますが、中国にも相撲があるというと意外に思う人も多いのではないでしょうか?
実は、日本に負けず劣らず、中国の相撲も伝統が長いものなのです。
春秋戦国時代には確認できる中国の相撲
中国における相撲は、角力(かくりき)あるいは角觝(かくてい)、または角抵(かくてい)と呼ばれていました。角とは競うという意味であり力比べを意味し、抵は触れる、或いは力に抗うを意味しています。
この二つをくっつけると、両者が力を比べるという意味で、これは、そのまま相撲の様子を意味しているのが分ります。相撲についての記録はすでに春秋戦国時代のマナーブック、礼記(らいき)の月令(季節の行事)の中に角力という言葉と共に出現し、
猛冬月に天子、将帥に命じて武を比べ、射御を習い、力を角べしむなどと記されているように、真冬に武術訓練をし射撃の腕を高めて相撲をして白兵戦の能力を高めていたようです。
日本の相撲との違いは?
中国の相撲は礼記の通り、戦闘訓練として始まっていますので、武器を失って取っ組み合いになった場合、体術で相手を倒せるように発展、組み技を基本としながらも、投げ技が豊富にあり突きや蹴りも反則扱いではありません。
また、土俵などがなく土俵を割るという負けがないのも特徴でモンゴル相撲に近い存在になっています。ただ、時代によってルールは異なり、スポーツ化したり武術になったり時期によって変遷しています。日本の相撲も初期はひざ蹴りもアリの格闘武術だったのと同じです。
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中国でも取り組みは裸だったのか?
日本の相撲と言えば、フンドシにちょんまげ一丁ですが、中国においても1975年に、湖北(こほく)省、江陵(こうりょう)鳳凰(ほうおう)山で出土した秦の時代の角抵図漆絵木篦(きべら)を見てみると裸にフンドシ一丁で相撲を取っているのが分ります。
絵の上部にはリボンのようなものがあり、これが屋根付きの建物の下である事を示し地面は突き固められていて土俵のような雰囲気になっています。また、リボンには神が降りる場所の意味もあるので、相撲が神事だった事を、同時に暗示しているのかもしれません。
さらに、現在、取り組んでいる力士の後ろには次の力士がスタンバイするなど現代の日本の大相撲に似た雰囲気です。ひとつ違うのは、当時の力士はフンドシ姿でも靴を履いているという事でこれは野外で行っていたという証拠かもしれません。こちらも時代によっては、上半身裸は変わりませんが、下半身はズボンを履いていたり変化はしています。
漢の時代には皇帝主催のイベントだった相撲
春秋戦国時代に、血なまぐさい格闘術として始まった相撲は、天下が統一されるとスポーツとしての側面が強くなっていきました。前漢の正史「漢書」「武帝記」の元封三年の記録には、
「春、角抵戯をおこない、三百里のうち、みなこれを観る」と出ています。中国の一里は400メートル程ですから、120キロ四方の人が相撲競技を見たという事になります。
元封六年(紀元前105年)の記録には、「夏、京師の民が上林平楽館において角抵を観る」と出ています。「平楽館」は漢の宮殿の事で、この宮殿がある上林苑とは、皇帝専用の狩猟場で120キロという広大な広さがありました。
ここに大勢の人を集めて相撲を催したという事は、沢山の取り組みがあり力士のトーナメント選のような事があったのでしょう。日本の皇室も相撲とは縁が深いですが、ここにも共通点を感じますね。
宮廷に招かれる事もあったであろう曹操(そうそう)や劉備(りゅうび)は、そのような相撲を見たり実際に戦闘訓練で行ったりしたかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
中国の相撲は、魏晋南北朝の時代になると、遊牧民の伝統と融合して、よりスポーツ性が高くなり、庶民の間でも相撲が取られるようになります。宋の時代に入ると、相撲は成人相撲以外にも、女相撲、子供相撲が登場。
専門職も登場し、周急快、董急快、賽((さい)関索、楊長脚などの四股名を持つ力士や囂(ごう)三娘、黒四姐のような女相撲の力士も登場したようです。中国の相撲は春秋戦国の時代から続き、日本とは姿を変えながら現代まで伝承している伝統行事なのです。
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