みんなが名乗りたがる最高の位!皇帝と王の違いについて分かりやすく解説

2016年3月18日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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胡亥

 

三国志を見ていると、王や皇帝、あるいは、侯という称号が出てきます。

ちょっと考えると、皇帝が一番偉い感じですが、では、王は何番目?

侯は、もっと下?その当たりについて分かりやすく解説します。

王とは、どういう意味だったのか?

 

 

さて、中国4000年の歴史を見てみると、最初に出現したのは、

王という位だと言えます。

王という文字は象形文字では、鉞(まさかり)を意味しています。

これは、共同体の中で罪を犯した者を斬首する権利を持つ人間という意味で

巨大な権力を持つ象徴が鉞という武器だったのです。

 

こうして、殷の時代より以後、王は地上において唯一絶対の存在として

君臨しつづけて、支配者を象徴する語になります。

 

王の下には、どのような称号があったのか?

 

 

さて、一番上が王だとしても、その下にもそれぞれ部下がいて、

部下が支配する土地が存在します。

彼等を表わす称号を造らないと序列がつかないという事になります。

そこで、周の時代には、公・侯・伯・子・男という五爵が定められます。

 

この爵は、元々はお酒を注ぐ三本脚の器の意味でしたが、

王に近い家臣が先に酒を貰い、座る席も王に近かったので、

それぞれの家臣の階級という意味合いを持つようになります。

 

五爵は、どういう序列だったのか?

孔子 儒教

公・侯・伯・子・男は、領地の広さによって、決定された階級です。

一番偉いのが公でした。

例えば、孔子(こうし)が尊敬した、魯国の始祖である周公旦(しゅうこう・たん)

という人がいますがこれは、周の公爵である旦という人という意味です。

また、斉の覇王になった桓公(かんこう)も、公爵というランクになっています。

執念の暗殺者であった豫譲(よじょう)の主君である晋の六卿(ろっきょう)は、

智伯(ちはく)というので、伯爵という事になります。

 

彼は、晋公の家来なので、周王室から見れば、家来の家来で、

爵位が伯に落ちているわけです。

趙の武霊王(ぶれいおう)が後を継いだ、趙の粛侯(しゅくこう)は

侯爵で公爵よりも1ランク落ちます。

 

一応、伯爵より下の子爵、男爵という階級になると、

かなり領地が小さく、あまり史書で見かける事はありません。

 

五爵と言いますが、これは王から見た場合には区別されますが、

それぞれの領地では、公侯伯子男のいずれの爵位でも、

配下からは、公と呼ばれました、殿様という程度の意味です。

 

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春秋戦国時代に入ると、王位のインフレが起きる

 

 

 

殷、そして、周の時代の中期位までは、唯一絶対の存在だった王ですが

※但し、楚は長江の付近から独自に発展した国で、周が王を名乗って

いた時代から王を自称していましたが・・

春秋時代を過ぎて、戦国時代に入る頃から、周王朝がすっかり力を失います。

これにより、富強になってきていた、秦や趙、韓、魏、斉、燕というような

七雄は、独自に王を名乗るようになります。

これにより、王の称号はインフレになってしまい、価値が低下します。

秦の始皇帝は、王に上位する皇帝の価値を産み出す

キングダム 始皇帝

 

紀元前221年、七雄の一国、秦は500年の争乱を終わらせて、

始めて中国を統一します。

 

ここで、秦王政は、以前の最高位である王を超える称号の創設に

着手しました、もはや手垢のついた王には満足できなかったのです。

そこで、生まれたのが、中国古代の三人の神を表わす三皇と、

五人の聖帝を表わす五帝から、それぞれ名前を取った「皇帝」という称号でした。

 

以後、中国においては、王は皇帝が任命する地位の一つになり、

唯一絶対の地位は皇帝という事になっていくのです。

 

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皇帝が出来て王の地位は、どうなったのか?

始皇帝 キングダム

 

皇帝という称号が出来て、前漢の時代に入ると、

王の称号は皇帝の息子達に与えられる称号になります。

彼等は、諸侯王(しょこうおう)と呼ばれ、特定の広さを持つ領地に赴任して、

ヘマをしない限りは、代々、○○王として、その土地を支配しました。

 

例えば、前漢の7代皇帝である武帝は、景帝の子でしたが、

四歳で、膠東王(こうとうおう)に任命されています。

王は、こうして、皇帝の王子が任命される地位になっていきます。

 

もっとも乱世になると、それぞれの実力者が王になるような、

時代に戻っていきます、晋の後の150年の争乱、五胡十六国の

争乱の時代などがそうです。

 

 

また、王位は、中華王朝に臣従する、中華の外にある

異民族の国の支配者に与える称号としても活用されました。

日本でも卑弥呼(ひみこ)が西暦239年(238年説もあり)に、

魏の曹芳により、親魏倭王に任命されていますし、

それより時代は降りますが、5世紀の大和朝廷の五人の大王(おおきみ)も、

それぞれ、倭王(わおう)の称号を受けています。

 

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では、五爵はどうなったのか?

 

 

王の上に皇帝が登場すると、爵位は、五爵から二十爵まで数が増えます。

その中の下の階級には庶民に与えられるようなものもありました。

 

これは、国で祝い事があった時などに、一律に庶民にも配られ、

皇帝の権威を国全体に及ぼそうと考えたものでした。

別に苦労なくもらえるので特典という程の事もなく、

ぶっちゃけ大したものではありませんでした。

 

それに庶民や下級の吏が登れるのは、8番目の公乗まで、

そこからすぐ上の、五大夫の爵位は、官秩600石以上の官に限られたので、

事実上は二十爵ではなく十二爵とも言えます。

 

もっとも上の二十爵は、列侯(れつこう)といい、王族ではない人間が

登れる最高の位になります、領地を与えられ、と呼ばれます。

 

三国志で、○○侯と呼ばれて、食邑(しょくゆう)を与えられる武将達は、

すべて、この列侯という事になります。

 

列侯の下は、十九爵で、関内侯(かんないこう)といいますが、

領地もなく給与だけで、一爵違えば、天地の差と言われました。

そこから、爵位は増減を繰り返しますが、1911年に

辛亥(しんがい)革命で滅ぶ、清朝まで連綿と続いていきます。

 

唯一絶対の筈が乱立する皇帝・・

皇帝いっぱい

 

始皇帝が定めた皇帝の階級は、以後の漢王朝にも踏襲されていきます。

しかし、前漢末の乱世になると、同時期に幾人も皇帝が出るようになり、

唯一無二のブランドに陰りが生じてきます。

 

極めつけには、後漢末になると、後漢を滅ぼして、

皇帝に即位した曹丕(そうひ)の魏王朝、そして、後漢の正統後継者を名乗り、

劉備(りゅうび)が建国した蜀漢王朝、さらに江南の土地で

孫権(そんけん)が興した呉王朝が並び立つ事態になります。

 

一人しかいない筈の皇帝が3名登場し、さらにかなり長い時期、

存続するという異常事態の出現です。

 

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悩んだ末に陳寿が取った方法、無かった事にする!

司馬炎 はじめての三国志

 

西暦280年、曹魏から禅譲を受けて、晋を建国した皇帝司馬炎(しばえん)は、

最期に残った呉を滅ぼし、100年ぶりに中国を統一します。

その後、晋の官吏として、三国志を書く事になった陳寿(ちんじゅ)は、

歴史に忠実であるべきという歴史家の態度と、

皇帝は唯一絶対という原則論に、板ばさみになります。

 

つまり、魏を継いだ唯一正統の国である晋の立場としては、

反乱者である、呉の孫権や蜀の劉備を皇帝として書く事は出来ないのです。

そこで、陳寿は悩んだ末に、劉備を蜀主、そして孫権を呉主としました。

こうする事で、皇帝という称号を回避したのです。

 

因みに劉禅については、二代蜀帝ではなく、先主の劉備の次なので

後主(ごしゅ)と明記し、呉については、孫権以後の3代の皇帝は、

三嗣主(さんししゅ)という括りになっています。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上、ざっと、王や皇帝、侯の違いを書いてみました。

爵位については、時代により、大きな違いがあるので、

ここでは、大雑把に触れていますが、興味がある方は調べてみて下さいね。

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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