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陳寿(ちんじゅ)が著した三国志は、裴松之(はいしょうし)によって
増補を受けて内容が濃くなりました。
そして、歴史書として多くの文人・政治家に読み継がれていくのですが、
この三国志、奈良時代には日本に漢籍の一部として入って来た事が分っています。
陳寿の三国志は、熱心に中国文明を吸収しようとしていた当時の日本の
エリート貴族層に読まれ、程なく三国志を引用した記述が生まれました。
日本史に確認できる三国志の引用は藤氏家伝から
日本史において、三国志が引用された最古のケースは、
天平宝字4年(西暦760年)に成立した藤氏家伝(とうし・かでん)の中の
大織冠(だいしょっかん)伝に出てきます。
藤氏家伝とは、摂関(せっかん)家として天皇の外戚として権力を振った
藤原氏の来歴を記述したもので、大織冠伝は藤原氏が隆盛を極める
切っ掛けになった朝臣、藤原鎌足(ふじわらかまたり)の伝記です。
藤原鎌足は、日本史でお馴染み、645年の大化の改新で中大兄皇子と共に、
当時、天皇を凌ぐ権勢を誇っていた蘇我入鹿(そがのいるか)を宮中で暗殺し、
政治を天皇の下に取り戻したと言われる人物です。
当然、大織冠伝においては、そんな鎌足の活躍が描かれるわけで、
必然的に殺される入鹿が悪役とされています。
筆誅!大織冠伝で董卓!とdisられた蘇我入鹿
さて、大織冠伝では、入鹿の悪行が事細かく語られています。
元々、入鹿は聡明な人物でしたが、父の蝦夷(えみし)から大臣の地位を引き継ぐと、
自らが天皇になったような横暴な振る舞いが多くなりました。
当時の天皇は蘇我氏の血を引く女帝、皇極(こうぎょく)天皇ですから、
その権勢には誰も対抗できず、従うより他はないという有様です。
しかし、反蘇我氏の皇族や貴族も黙ってはおらず、皇極天皇の後継として
聖徳太子の子で、英名の誉れ高い山背大兄王(やましろおおえのおう)を立てます。
一方で入鹿は、自分の言いなりになる古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)を
擁立して対抗、先手を打った入鹿は、643年11月、巨勢徳多(こせの・とこた)
土師猪手(はじの・いて)、大伴長徳(おおとものながとこ及び百名の兵に、
斑鳩宮(いかるがのみや)の山背大兄王を襲撃させます。
破れた山背大兄王は生駒に逃れ、そこから斑鳩寺に入り自殺して果てます。
大織冠伝は、こうして聖徳太子の王子まで武力で滅ぼした入鹿に対して、
入鹿の父、蝦夷の感想も交えて、以下のように書いています。
父の豐浦大臣(蘇我蝦夷)、慍(ふづく:激怒する)りて曰く、
「鞍作(入鹿)爾が如き癡人(愚か者)、何處(いずこ)にか有らむや
吾が宗(一族)、將(まさ)に滅びなむ」と憂へて自から勝へず
鞍作、以爲(考えるに)、已に骨自ら粛たるが如し
心、常に是を鯁(とげ)を除き方に後の悔ひなしと。
安漢の詭譎(だます)、徐(じょじょ)に朝(日本)に顯(あら)はれ
董卓(とうたく)の暴慢、既に國に行なわる。
下線の二行を見ると、安漢(後漢王朝)そして董卓という言葉が
ハッキリ出現する事が分ります。
これが、日本史における三国志の引用の初見であるようです。
少帝、献帝を蔑ろにした董卓と入鹿は同類と思われた
董卓というのは、三国志序盤の大悪党で、洛陽の混乱に乗じて入り、
少帝を勝手に廃位して、子供だった献帝を即位させ後見人になるや
好き放題な政治を行い暴政で人民を苦しめ、最期には
惨めな死を迎える人です。
藤氏家伝 大織冠伝は、本来帝位に就くべき山背大兄王を殺し
政治を自分の好きにしようとした入鹿を少帝を廃して、献帝の後見となり
暴政を敷いた董卓をダブらせる事で、その悪人ぶりを際立たせたのです。
そんな入鹿は二年後、宮中において中大兄皇子、
佐伯子麻呂(さえき・こまろ)に襲われ天皇に無実を訴えるも聞かれず、
首を刎ねられ、その遺体は雨の中に放置されたそうです。
董卓も首を落された後、死体は都の大通りに裸で放置され、
肥満した体の臍から脂が出ているのを見た庶民が、遊び半分で
蝋燭の芯を差し込んで火を灯すと三日三晩燃え続けた話があります。
参考文献:藤氏家伝を読む
著者: 篠川 賢/増尾 伸一郎 出版社: 吉川弘文館
【日本人と三国志の出会い】奈良時代に董卓だとdisられていた人【シミルボン】
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