三国志の英雄である曹操(そうそう)。
彼は中華の半分以上を領有しますが、
漢王朝を滅ぼして自ら帝の位に就任することはありませんでした。
彼が皇帝にならなかった理由は古代中国に存在した一人の王を慕っていたからです。
曹操が慕っていた王の名を西伯昌(せいはくしょう)といいます。
後に周王朝が成立すると文王と呼ばれることになる人物です。
今回はこの周の文王である西伯昌についてご紹介したいと思います。
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この記事の目次
父の跡を継いだ人望溢れる人物
姫昌(きしょう)は父・季歴(きれき)の跡を継いで部族を統率していきます。
孔子(こうし)は彼を聖王として讃えておりますが、
その聖王ぶりを見せて多くの人々から好かれて行きます。
姫昌は幼少の者たちを慈しみ老人を敬いっていました。
また賢者と言われた人達と会う時は食事をする時間を削ってまで会って多くの人と会い、
色々な話を聞きます。
彼のこのような行いを知った人々が多く集まってきます。
しかし彼の人気ぶりにヤキモチを焼いていた人がおりました。
恐ろしい話を耳にしため息をつく
姫昌が生きていた時代は殷の時代です。
この時の殷王朝のトップは後世「酒池肉林」の四文字熟語を成立するきっかけとなった
紂王(ちゅうおう)でした。
彼はある日殷王朝の会議が開かれると聞き、
この会議に出席するため紂王がいる宮殿へ向かいます。
姫昌が到着したときはまだ会議が始まっておらず、
諸侯がだべって盛り上がっておりました。
彼はこの話が気になり耳をそばだてていると恐ろしい話が姫昌の耳に入っていきます。
諸侯が話していた内容は「この間九侯と卾侯(がくこう)が紂王様の命令によって、
切り刻まれて処刑されたそうな。我らもいつ紂王様に目をつけられるかわからないから、
気をつけないといけないな」と話しておりました。
この話を聞いて姫昌は大きくため息を付きます。
すると一人の男が諸侯がだべっている部屋から抜け出していきます。
紂王に幽閉されてしまう
諸侯が九侯と卾侯の惨殺事件の話をしているとき姫昌がため息をついた場面にいた
崇侯虎(すうこうこ)と呼ばれる人物は急いで、紂王の元へ向かいます。
彼は以前から姫昌の以上に高い人気ぶりにヤキモチを焼いており、
チャンスがあれば彼を陥れてやろうと考えておりました。
その機会を掴んだ彼は紂王がいる部屋へ到着するとすぐに会見を申込みます。
紂王は気だるげに応じ「なんのようだ」と大声で訪ねます。
すると崇侯虎は「先ほど姫昌が紂王様の政策に反対するようにため息をついている様子を
伺いました。
また彼は非常に人気を民衆や部族から集めており、
いつ殷王朝に反旗を翻すかわかりません。
早急に彼を罰したほうがいいのではないのでしょうか」と悪口を紂王に吹き込みます。
紂王はこの話を聞いておおいに怒り姫昌を呼び
「貴様。わしのやることに反対しているそうだな。
ならば殷の政権に参加できないように貴様を羑里(ゆうり)へ閉じ込めてやる」と命じます。
姫昌は何がなんだかわからないまま紂王の命令を受けて殷王朝の南にあるへ羑里に
向かいます。
この地で幽閉されることになった姫昌ですが、
やることもなくものすごく暇であったので周易と言われる書物を書いて時間を潰しておりました。
民衆や諸侯に助けてもらう
姫昌(きしょう)は幽閉されている間に外では彼を慕っている民衆や諸侯らが紂王(ちゅうおう)に
貢ぎ物を送り続けます。
そして貢ぎ物を送る際に必ず「姫昌は役に立つ人物です。
ここで殺してしまってはもったいないでしょう」と一言付け加えるのを忘れませんでした、
こうして貢物作戦が効を奏し紂王は彼の幽閉生活を終わりにさせます。
さらに彼を西方にある領地を与えて、「西伯」と名乗らせます。
こうしてこうして彼は西伯昌と呼ばれる事が多くなっていきます。
妲己の大好きな炮烙の刑をやめさせる
姫昌は西方の領主として出世するとまず紂王の側室である妲己(だっき)が好んで行っていた
炮烙の刑(ほうらくのけい)をやめさせるために動き始めます。
炮烙の刑はまず焚き火を盛大に焚かせた炎の上に銅製の丸太をかけます。
この銅製の丸太の上に油をまんべんなく塗りたくって囚人が、
この銅製丸太を渡りきることができたら釈放。
もし渡りきることができずに滑り落ちればそのまま炎に焼かれて死ぬという残忍な刑罰でした。
妲己は囚人達の緊張に満ち溢れた表情を見るのが好きでよくこの刑を施行していたそうですが、
姫昌はこの刑罰が残忍極まりない刑罰であることから、
自らの領地を与えてこの刑罰を廃止させます。
ついでにこの銅製丸太を渡りきっても、
再度戻ってこないといけないのでほとんどの人が焼け死ぬというとんでもない刑罰でした。
調停者としても活躍
姫昌の人徳の高さによって多くの人々が彼を慕い彼の領地へ押しかけてきます。
また彼の徳の高さを頼みにしていた諸侯も多く、
揉め事が近隣の国と起きるとすぐに姫昌にお願いして調停にしてもらっていました。
そんな中、虞国(ぐこく)の君主と芮国(ぜいこく)の君主が揃って彼の元へやってきます。
彼ら二人は姫昌が統治している周国を通って来たのですが、
この国では民衆が争っている姿を見かけることがなくしっかりと統治されており、
民衆達は道を譲り合っている有様を目にします。
この光景を見た虞国の君主と芮国の君主は姫昌の元へたどり着くと
「今回我らふたりの争いごとを調停してもらおうとやってきたのですが、
周国の民衆を拝見させてもらい我ら二人が争っているの事柄がなんて小さいことなんだと
気づかされました。
民衆がお互いに譲り合うことにしました。」と述べて二人は帰っていきます。
姫昌は唖然としておりましたが、互いが譲り合うことの大切さを二国の君主にわかってもらえた事を
大いに喜び、宴会を催して彼らを帰します。
姫昌にまつわるはじめてのプチ知識を知ろう:岐阜県は姫昌が起源?
ここでちょっと寄り道
明日から使えるはじめての三国志で初めての試み。
はじめてのプチ歴史をお教えします。
今回は文王と言われた姫昌と岐阜県のお話です。
岐阜県は実は文王が起源であったのをご存知でしたか。
この「岐阜」の地名が出てきたのは戦国時代で、最初にこの地名を使ったのは織田信長です。
彼は稲葉山と言われた岐阜城を攻略した時、この地を本拠地とします。
本拠地として定める際に「周は岐山(きざん)によって天下統一に成功した」故事を引用して、
この稲葉山の地を岐阜城と改名し、天下統一へ乗り出していきます。
江戸時代になるとこの岐阜の地は「加納(かのう)」と言われますが、
明治政府が成立した際、廃藩置県(はいはんちけん)を実施。
この政策によって加納の地は再び岐阜として蘇り、現在に至っております。
もし岐阜県のお話が出てきたり、岐阜の人と話す機会があったら、
はじめてのプチ知識を早速披露してみよう。
周りから羨望の目でしたわれ、自らの知識の深さを披露でき、
受けること間違えなしのプチ知識です。
ぜひお試しあれ
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狩りに行った際の成果を占うと・・・・
姫昌(きしょう)はある日、狩りに行こうぜ!!で有名なハンターをしに行こうと考えます。
そして彼は狩りをしに行く前に占い師へ「狩りの成果がどんなもんになるか占ってくれるか。」と
お願いします。
すると占い師は「鳥獣をハンティングするのではなく、今回ハンティングするのは人材でしょう」と
述べます。
この話を聞いた姫昌はどのような人材がハンティングすることができるのか、
楽しみにしながら狩りへ出かけます。
ハンティングしたのはあの天才軍師だった
狩りに出かけた姫昌はある河で貧乏そうな老人が釣りに興じている姿を目にします。
なぜか彼はこの老人に惹かれる所があり、
彼のそばに言って釣りのことなど色々な話をします。
そしてこの貧乏そうな老人と色々な話をした結果かなりの知識を持っておりました。
姫昌は(彼こそ今日の獲物だろう)と考えこの貧乏そうな老人に
「私の国ではこのような言い伝えが残っております。
それは周の国に聖人が現れ、国を大いに栄えさせることになるであろうというものです。
今日ここであなたと出会ったのは、
天命が周の国を栄えさせるために遣わしてくれたあなたが聖人なのでしょう。」と述べます。
この言葉を聞いた老人は首をかしげながらも彼と話しているうちに惹かれ、
彼に仕える決心をします。
この貧乏な老人こそ後の世に天才軍師として知られることになる「太公望・呂尚(りょしょう)」です。
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周辺異民族討伐と崇侯虎討伐
周の国の周辺には異民族が多く割拠しており、度々周へ侵攻をしておりました。
彼は攻撃してきた異民族を討伐することに明け暮れておりましたが、
天才老人軍師である呂尚を向かい入れると彼の進言に従って、異民族討伐戦へ赴きます。
そして呂尚の的確なアドバイスのおかげで異民族討伐に成功することになるのです。
以前姫昌の悪口を紂王(ちゅうおう)に言って幽閉した崇侯虎(すうこうこ)討伐へ出陣。
彼を難なく打ち破り、彼の領地を手に入れ周の国は領土拡張をし続けていきます。
こうした周国の領土拡張を危険であると判断した紂王の臣下は
「王様。このまま周が領土を拡張していけば必ず、我らに禍が降りかかってくるでしょう。
今のうちに始末しておいたほうがいいと思います。」と紂王へ進言。
しかし紂王はこの進言を取り上げずに周国の領土拡張を放置しておりました。
突然の死
姫昌は周辺異民族討伐や崇侯虎などを討伐したことによって領土拡張に成功。
また紂王の悪逆非道の政治を見限って、多くの諸侯が彼を慕って誼を通じてきます。
こうして天下の輿望を一身に集めていた姫昌ですが、
彼は紂王に楯突くことなく彼の臣下として仕え続けます。
しかし彼は突然病にかかって亡くなってしまいます。
三国志ライター黒田廉の独り言
商王朝を凌駕する勢力を保有し、天下の人民から輿望を集めていた姫昌。
彼が亡くなると子の発が跡を継ぎます。
そして発が紂王を討伐して商王朝の幕を閉じて周王朝の成立に成功すると、
父姫昌を文王として諡をして丁重に葬ります。
中国の儒教の祖と言われる孔子は「周は武王が生きている当時、
天下の3分の2を有していながら悪逆非道の君主である
紂王に仕え続けていたのは臣下として立派である。
また領土経営に関しては敏腕をふるい民衆から慕われていた。
彼を聖王と言っても過言ではない」と大いに文王を褒めちぎっております。
これだけ評価の高い王様を曹操が真似たとしてなんの不思議ではないような気がします。
「今回の春秋戦国時代のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~」
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