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殷の紂王(ちゅうおう)とはどんな人?悪逆非道の限りを尽くした殷朝最後の帝辛

2017年2月22日


 

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董卓えらそう 独裁

 

 

三国志の時代には暴君と言われる人物が出現します。暴君の代表格といえば献帝(けんてい)を操り、酒池肉林を行って政治を自らの思うままに動かした董卓(とうたく)が有名でしょう。だが古代中国には董卓を超える暴君がいたのをご存知でしょうか。その名を紂(ちゅうおう)といいます。董卓を凌ぐと言われている暴君であった紂王は一体どのような人物なのでしょうか。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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頭が良すぎ、力強くイケメンな紂王

 

 

紂王は実は頭の回転がものすごく早く、記憶力も抜群であったそうです。その為、自分に非がある行為を臣下に咎められても、自慢の弁舌で切り返して臣下を黙らせていたそうです。この結果紂王が行う政策に注意をする配下が少なくなってきます。また彼は力もかなり強く、猛獣を素手で殺してしまうほどでした。そして彼はイケメンな王様であったそうです。こんなに強く王様が一人の美女とであった事で狂い始めてしまいます。

 

 

側室として妲己を迎える

 

紂王は名君の素質を持っておりましたが、臣下がすべてポンコツに見えてしまいだんだんとやる気が無くなり、王としての勤めを果たさなくなっていきます。そんな中一人の美女と出会います。その名を妲己(だっき)といいます。彼は妲己をお妾さんとして迎え入れると彼女の心を満足させるために、彼女が望んだことをなんでも叶えていきます。

 

妲己のわがままその1:淫らな曲を作ってくださいまし

 

妲己は紂王が自分のわがままをなんでも聞いてくれると言ってくれたので、試しに「私淫らな曲を聴きたいの」と紂王にお願いします。すると紂王は「わしに任せよ」と言い放ちます。そして彼は曲を作る者に「今すぐ淫らな曲を作れ」と命じます。こうして曲を作るものはわけがわからないまま、紂王の命令に従って淫らな曲を完成させます。この曲の名前は「北里の舞」と「靡靡(びび)の楽」と名付けられ、この曲を聞いた妲己は大いに満足したそうです。

 

妲己のわがままその2:乱痴気騒ぎが見てみたい

 

妲己は次に紂王に「王様。私乱痴気騒ぎと言うものを見てみたいの」とお願いします。紂王は「早速やるか」と言って快く快諾。紂王は気に肉をいくつもぶら下げ、池の水を取り除いてから、酒を溢れるほどに注ぎます。そして若い男女を真っ裸でこの宴に参加させます。もちろん妲己や紂王も裸で参加。こうしてこの乱痴気騒ぎはいつ果てることなく続いたそうです。そして後世にはこの時の宴会を「酒池肉林」と伝えられることになります。

 

「酒池肉林」実は乱痴気騒ぎではなかった??

キングダムと三国志

 

 

紂王が妲己の要望に応えて行った乱痴気騒ぎは実は「酒池肉林」と言われている騒ぎでは、ありませんでした。当時の殷王朝では神様に行うお祭りであったとしている説が唱えられているそうです。現代は巫女様=女性ですが、殷王朝では男性も神降ろしの儀式ができたそうで、女性と男性の巫女様が舞を舞いながら儀式を行っていたそうです。また酒も当時では神様のお供えもとして非常に貴重なものでした。しかし紂王は当時の酒は少量しかお供えをしていないから少ないのではないかと考えて、池の水をすべて抜いて酒とチェンジしたと考えれば、そんなに筋が通らない物ではないと思います。

 

歴史は勝者がすべて都合のいいように敗者を貶めることが出来るのものです。その為、周王朝に取って殷王朝は悪に仕立上げなければなりません。そこで殷王朝最後の王様である紂王が行った行為をすべて悪く記載して後世に残したのでは、ないのでしょうか。このように考えれば実は紂王が行ったことのいくつかは、それなりに理由があったものかもしれません。

 

 

妲己のお願いその3:火焙りの刑が見たい

 

妲己(だっき)はある時紂王(ちゅうおう)に「私今まで生きている人が火に焙られている姿って見たことないの。王様火焙りの刑を見せてくださらない」とお願いします。すると紂王は「すぐに作ってやるからちょっと待ってろ」と言って部屋から出ていきます。

 

そして彼はすぐに諸将と配下を集めて「今後重大な法律違反をしたの者には、火焙りの刑を施行する」と命令を下します。彼が考えた火焙りの刑は半端なものじゃありませんでした。まず炭火を敷き詰めた上に油をまんべんなく敷きます。そしてこの炭火の上に鉄の棒かけたら完成です。この刑を「炮烙(ほうらく)の刑」といい、罪を犯した罪人を激アツになった鉄の棒を素足で歩かせる刑罰となっており、もしこの鉄の棒を渡りきることができれば免罪となるものでした。

 

紂王と妲己は炮烙の刑が執行されることを知ると二人でこの現場を見に行き、罪人があたふたしながら鉄の棒をわたっている姿を見て大いに笑い転げておりました。こうして妲己は他にも色々な事を紂王にお願いして、わがままを聞いてもらっていたそうです。

 

紂王の政策とは

 

紂王は妲己のお願いばかり聞いているわけではありませんでした。彼は鹿台と言われる地上200メートルほどの超高層楼閣建造を計画。そして彼は奴隷として羌族(きょうぞく)を引っ捕えて奴隷として働かせます。彼らが7年間一生懸命働いてようやく完成した楼閣。紂王はその上に銭や宝物を大量に溜め込んでいたそうです。この結果、民衆が負う税金が一気に高騰して言ったそうです。

 

 

紂王の政策はなんの考えもなしに実施されたのか?(宮城谷氏の考え)

 

なぜ紂王は鹿台と言われる楼閣を建造して、その上に財宝を溜め込んでいたのでしょうか。私の大好きな歴史小説家の宮城谷昌光氏が書いた「史記の風景」という本で、紂王が鹿台に金銀財宝を溜め込んだのは、貨幣でやり取りする貨幣経済について実行しよう考えていたのではないのかと仮説を立てておりました。

 

インフレやデフレが発生しても物価の安定を狙って蔵にお金を貯めていたのではないのかと書いておりました。もしそうであるならば紂王は相当頭のいい君主であり、決して暴虐な君主ではなかったことの証明になりますが、あくまでも仮説であるので何とも言えません。

 

 

殷の三仁の登場

 

こうして殷王朝は紂王の暴虐政治によって民衆は苦しんでいきます。しかし紂王の悪逆な政治をストップさせるために「殷の三仁」と言われる人が登場します。一人目は紂王の身内である微子啓(びしけい)・紂王の叔父である箕子(きし)と比干(ひかん)の三人です。彼らは紂王が自らの政治に省みることなく、暴虐な行いを改めないで殷王朝の人心や諸侯が困惑している現状を憂いて、紂王に諌言することにします。まず微子啓が紂王の前に躍り出て真正面から注意をします。群臣達は微子啓が紂王に殺害されてしまうのではないかと心配しましたが、何事も起きませんでした。

 

その後も度々紂王に諫言を行いますが、紂王は微子啓の言葉を聞き入れることはありませんでした。この状況を微子啓は嘆き箕子に「紂王は一切私の進言を聞き入れようとはしない。そこで私は死をとして諫言するか、それともこのまま殷王朝を去って他国に亡命しようかどちらを選択しようか考えているのだ」と現状が変わらないことに対して、いらだちを覚えていました。箕子は「国を去るのは君主の恥を世の中に晒すことになる。臣下が取る道は一つである。それは身命をとして君主を諌めることだ。」と言い放ってから、かれの元を去っていきます。

 

箕子の諫言

 

箕子(きし)は自ら紂王の元へ行き「王は最近象牙の箸を作ったそうではないですか。ならば陶器の器では満足できずに玉の器を作ろうとするでしょう。すると次には玉の器に入っている物がみずぼらしくみえて、豪華なものを入れようとするでしょう。このように次々と欲望が湧いてくるので、どうか王にはここで欲望に歯止をかけていただきたい」と諫言を呈します。すると紂王(ちゅうおう)は立ち上がり、その場をあとにしてしまいます。箕子はこのままでは命が危ないと考えて、家に帰ると狂っているように見せかけて奴隷の身分へと自ら落ちていきます。箕子がダメであった事を知った比干(ひかん)は、自ら宮殿に向かって紂王に諫言を聞いてもらおうと決意を固めて向かいます。

 

 

比干の諫言

 

比干(ひかん)は妲己の要望に応えて作った刑罰である炮烙の刑をやめさせるため、紂王に諫言を呈します。今まで紂王は諫言に対して無視しておりましたが、比干の諫言には反応して「お前は王である私に諫言を呈してくるとは、聖人のつもりか」と怒りだし「聖人ならば心臓は七つあるそうな。一つを潰しても生きているはずだな」と言って比干をその場で殺害してしまいます。こうして身内の三人が紂王へ諫言を呈するもすべて無視されていしまいました。生き残った微子啓は「俺らは誠心誠意を込めて紂王へ諫言を呈してきたが、聞く耳をあの王は持たなかった。非常に残念であるが、この国を捨てて他の国で生きていくしかない」と部下に述べて殷王朝を出て他の国へ逃亡します。

 

姫昌が衆望を集める

 

このように殷王朝は日に日に民衆や諸侯から恨みを買っておりましたが、反対に民衆や諸侯から支持を集めていた人物がおりました。その名を姫昌(きしょう)といいます。彼は紂王に一度捕らえられて幽閉されてしまいますが、民衆や諸侯が紂王へ金銀財宝を献上したことによって釈放。その後彼は西方の統治権を紂王からもらって西伯昌と呼ばれることになります。こうして西方で名声を得ていた西伯昌ですが、彼はどんな民衆や諸侯から望まれようとも殷王朝を攻撃して、滅亡させようとは考えておりませんでした。そして彼の死後西伯昌の息子である発が跡を継ぐことになります。

 

牧野の戦い

 

西伯昌の息子である発は殷王朝に忠義を尽くして亡くなった父のように考えてはいませんでした。彼は暴虐な政治を行って諸侯や民衆を圧迫している殷王朝を打倒するために兵を集めて挙兵。そして一度は殷王朝を討伐しようと攻撃を企てますが、天の声を聞いたとして攻撃をせずにやめてしまいます。

 

この2年後彼は再び殷王朝打倒の兵を挙げて討伐軍を編成して出陣します。紂王は発が大軍を率いて首都・朝歌(ちょうか)へ向かっていることを知ると、軍勢を集めて出陣します。紂王に集まった軍勢は70万もの大軍ですが、この大軍勢の大半は奴隷でした。そして発の元に集まってきた軍勢は40万ほどでしたがしっかりと訓練されている諸侯の正規兵が大変を占めておりました。こうして両軍は牧野(ぼくや)の地で決戦を開始します。発が率いている軍勢は奴隷の軍勢である紂王軍を各戦線で破っていきます。

 

また紂王軍はあまり士気が高くはなく一方の戦線で発の軍勢に破れた軍を見ると次々に戦線を離脱していきます。こうして発の軍勢は倍する紂王軍を撃破することに成功します。紂王は牧野の会戦で敗北すると朝歌へ逃走し、超高層楼閣である鹿台の上に登って、そのまま火を放って焼身自殺してしまいます。こうして殷王朝は滅亡し、周王朝が成立することになります。

 

殷王朝ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レン

 

紂王のお妾さんである妲己ですが実は狐の妖怪であったとしており、このネタが元で封神演義では妲己は狐の妖怪として人間に化けて登場して、紂王をたぶらかして殷王朝を滅亡させている姿が描かれております。また日本では鳥羽上皇の寵姫として知られる玉藻前と結び付けられて、妲己=狐であるとしております。葛飾北斎も妲己を狐の尾っぽがついた女性を描いております。

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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