魏、呉、蜀が互いに帝位を称して争ったのが三国志です。
そこには魏には魏の、呉には呉の、蜀には蜀の大義名分あったことでしょう。
それぞれの国の臣が個性を活かし、己の信念をぶつけて国の発展に寄与しました。
しかし誰もがこの三国並立の時代を望んでいたわけではありません。
多くの人々が無駄な流血に嫌気がさし、争いのない平和な生活を願望していました。
つまり三国並立よりも天下統一を求めていたのです。
今回はそんな人々の象徴である呉の張昭(ちょうしょう)に迫りたいと思います。
孫権に師傅の礼で遇される
呉の創業者たる孫策は、かつて張昭を迎え入れるときに、
わざわざ張昭の母親のもとに挨拶に訪れたといいます。
そして軍事・政治の一切を張昭にゆだねたのです。
そして自らの死に臨んで、弟である孫権の後見になるよういい残しました。
孫権が適任でなかったら張昭がそれにとって代わるようにも指示しています。
孫策の絶大な信頼を得ていた張昭は、孫権に帝王学を学ばせるため叱咤激励を繰り返しました。
張昭は孫権を立派なリーダーに育てるべく妥協せずに改善点を指摘し続けたのです。
もちろん孫権も腹を立てることもありましたが、
張昭の言い分はいつも正論であり、孫権はなかなか言い返せません。
まさに師と弟子のような関係性とも見て取れます。
超頑固者の張昭
とはいっても孫権は主君です。
普通はそこまで意地になって諫言したりしないだろうということも、張昭は妥協をしません。
特に北方の公孫淵が呉に臣従したいと交渉にきたときには孫権と張昭は感情的にぶつかり合います。
主君の考えを聞いても一歩も退かない張昭に孫権は怒りが爆発。
対して張昭は涙ながらにあくまでも孫権のために忠告しているのだと答えました。
結局、孫権は自分の考えを押し通すのですが、すると今度は張昭が怒って参内しなくなりました。
孫権は立腹し、張昭の屋敷の門を土でふさぎました。
それに対し、張昭も内側から土を盛ってふさいだのです。
怒り心頭の孫権は屋敷に火を放ちます。それでも張昭は頑として家から出ませんでした。
最終的には張昭の息子たちが張昭を救い、孫権も自らの不明を詫びて一件落着します。
張昭の強情さはまさに三国志登場人物一でしょう。
丞相職の椅子
孫権が丞相職を設けたとき、臣下はみな張昭を推しました。
しかし丞相になったのは孫卲(そんしょう)でした。
その孫卲が亡くなった後、またも臣下は丞相に張昭を推しましたが、
孫権は別の人物・顧雍を丞相に任じました。
孫権が言うには、張昭は強情すぎるため、
意見が通らなかったら大きなトラブルが起こることが予想されるから丞相にはしないとのことでした。
しかし、その理由は別にあったというのが通説です。
それは西暦208年ごろの出来事に由来しています。
降伏派筆頭の張昭
西暦208年は孫権にとって未曽有の危機を迎えた年になります。
曹操の大軍が荊州を占領し、孫権の領土目指して進軍してきたのです。
あまりの大軍相手でしたから臣下の意見も大きく分かれました。
周瑜や魯粛をはじめとする徹底抗戦派と張昭を筆頭とする降伏派です。
みなさんがご存知の通り周瑜の意見が孫権に受け入れられ、
赤壁の戦いとなるわけですが、このとき周瑜や魯粛に反論したのが張昭でした。
孫権はそれをずっと引きずっていたというわけです。
孫権が帝位についたとき、
「もし張昭の意見を聞いていたら今頃はわしは飯を恵んでもらっている立場だっただろう」
と公衆の面前で張昭を皮肉ったそうです。
張昭は官位と所領を返上しました。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
赤壁の戦いの際のやり取りを見て、張昭を腰抜けと判断される方も多いと思います。
張昭の意見が通っていたとしたら孫権は滅びていましたし、劉備が再興することもなかったでしょう。
曹操は天下を統一していたはずです。
そもそも三国志が成り立たない話になります。
しかし民衆のことを考え、三国間のその後の不毛な戦の連続を見ていると、
それが一番平和的な解決であり、多くの命を救う政治的な決断だったと思います。
張昭はそんな平和を願う人々の象徴だったのです。
張昭の志は一段も二段も高いところにあったのかもしれません。
みなさんはどうお考えですか。
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