魏には呉軍と戦えばほとんど勝利を収めていた将軍達がおり、
代表的な人物として合肥で呉軍を散々に打ち砕いて大勝利を収めた張遼(ちょうりょう)、
孫呉の軍勢がやってくれば必ず勝利を収めていた満寵などです。
彼らは孫呉キラーとして有名ですが、
蜀軍を相手に連戦連勝した人物はいないのでしょうか。
そんなことはありません。ちゃんと蜀軍キラーとして有名な武将がおりました。
今回は東の蜀軍を相手に幾度も勝利を収めた歴戦の武将である張郃(ちょうこう)の輝かしい
対蜀軍との戦歴をご紹介していきたいと思います。
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この記事の目次
張郃の対蜀戦での戦歴その1:劉備軍の奇襲を撃退
張郃は曹操と共に漢中攻略戦に参加。
彼は漢中戦が終了すると夏侯淵(かこうえん)と共に漢中にとどまり、
いずれ漢中へ攻撃を仕掛けてくる劉備軍に対して守備を固めていきます。
219年ついに劉備軍が大軍を率いて漢中を攻略するべく出陣してきます。
劉備軍は下弁(かべん)、固山(こざん)に軍を囮に使い自らは陽平関を占拠。
その後張郃率いる魏軍に対して一万の兵をもって大規模な奇襲作戦を行います。
張郃は劉備軍が奇襲を仕掛けてきてもしっかりと守り劉備軍を撃退することに成功。
張郃が劉備の奇襲作戦に対応している最中、夏侯淵が劉備軍の猛攻にあって討ち死にしてしまいます。
しかし張郃の蜀軍キラーとしての戦いはここから始まることになります。
張郃の対蜀戦での戦歴その2:街亭で蜀軍を打ち破る
諸葛孔明(しょかつこうめい)は魏軍を討伐して天下統一を行うため、
蜀軍を率いて第一次北伐戦を開始します。
魏の皇帝である曹叡(そうえい)は張郃を派遣して蜀軍を追い払うように命令を下します。
孔明は山登りの名人である馬謖(ばしょく)へ「街亭の砦に布陣せよ」と
命令を出して出陣させます。
しかし馬謖は孔明の命令を無視して街亭近辺にある南山に登って魏軍を待ち受けます。
張郃は街亭に来ると蜀軍が砦を固めずに南山に登って迎撃態勢を整えていることに
「あいつは馬鹿か!!街亭の砦を守ることもしないで山に登るとは。
山上に上っている蜀軍が水を補給できないようにせよ」と命令を出し、
水が補給できないようにしてから数日後、南山に布陣している蜀軍へ総攻撃を行い、
撃破することに成功します。
張郃の働きによって蜀軍の第一次北伐戦を頓挫させます。
張郃の対蜀戦での戦歴その3:陳倉攻防戦が早期に終わることを読んでいた
魏の大将軍であった曹真(そうしん)は孔明が陳倉城へ攻撃を仕掛けてくると予想し、
郝昭(かくしょう)に陳倉城を守らせることにします。
孔明は曹真の予想通りに陳倉城へ攻撃を行います。
曹叡は張郃をすぐに宮殿に呼び出して彼に
「朕は将軍が行く前に陳倉城が陥落するのではないかと心配である。」と
質問。
すると張郃は曹叡に「蜀軍は食料の輸送がうまくいかずに手間取っていると聞いております。
そこで私が蜀軍の食料がどれほど持つか試算してみた所、
10日ほどしか持たないであろうと考えております。
私が軍勢を率いて陳倉城へ赴く間に諸葛亮の軍勢は蜀へ撤退していると思います。」と
述べ曹叡を安心させます。
その後張郃は昼夜問うことなく軍勢を進軍させて陳倉城へ到着しますが、
張郃の予想通り孔明の軍勢は既に撤退した後でした。
三国志ライター黒田レンの独り言
劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取り魏軍に勝利した際このように述べております。
彼は側近へ「恐ろしいのは夏侯淵ではなくて張郃だ。」と語っており、
張郃がいかに恐れられていたかを表す証左と言えるのではないのでしょうか。
彼は対蜀戦だけでなく、
孫呉との戦でも司馬懿(しばい)とタッグを組んで戦功を上げており、
蜀だけでなくオールマイティーに強い武将でだったのではないのでしょうか。
参考文献 西東社 オールカラーで分かりやすい三国志 監修者渡辺清一など
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