三国志一の自意識過剰の面倒くさい人関羽(かんう)、目下にはとても優しいが、
同僚や目上には平気で反発する関羽のワガママは劉備(りゅうび)に荊州を任されてから、
益々強化され、とうとう蜀呉同盟の崩壊まで突き進んだと言われてきました。
しかし、関羽のワガママは、本当にすべて関羽のせいなのでしょうか?
今回は、その辺りを検証してみましょう。
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この記事の目次
どうして、関羽は孫権からの縁組を断ってしまったのか?
関羽のワガママとして決定的なのは、荊州を巡る軍事的な緊張を緩和する為に、
関羽の娘と自身の息子との縁組を求めた孫権(そんけん)に、にべもなく
拒絶を突き付けた事です。
三国志演義では、「虎の娘を狗の子にやれるか」と怒鳴りつけていますが、
それは正史では確認できません、しかし縁談は断ってはいるようです。
この部分だけを見ると、荊州を領有して群雄気取りの関羽が孫権を軽く見ているように
確かに見えます、この態度に孫権が激怒して蜀を見限ったと見えなくもありません。
しかし、この関羽の態度は、その頃の孫権の態度に対するものでもあったのです。
魏とも蜀とも結ぶ、孫権の二股疑惑
実は、関羽との縁談が流れた頃、孫権は、魏と蜀に二股を掛けていました。
陳寿の正史三国志、呉志 呉主伝、西暦217年に以下の記述があります。
權令都尉徐詳詣曹公請降 公報使脩好 誓重結婚
訳:孫権が都尉(とい)徐詳(じょしょう)を派遣して曹操に降伏を請い、
曹操(そうそう)は報使によって修好し、結婚の誓いを重ねた。
時期としては、対蜀融和論者の魯粛(ろしゅく)が亡くなった頃、
孫権は都尉の徐詳を仲介して、曹操の元に派遣し降伏を請い、曹操はそれを受けて
呉に使者を派遣して友好関係を締結しました。
結婚の誓いまで重ねている事から形式上は魏の臣下となる事を受けいれています。
いかに、呉が生き残る為とはいえ、こんな事が劉備(りゅうび)の耳に入れば
確実に疑念を持たれるような信義にもとる行為です。
実際は、関羽が縁談を蹴ったからではなく、それ以前から孫権は保険として
魏に接近していたのです。
孫権の二股に義にうるさい関羽が爆発した
劉備は兎も角として、この事は荊州にいた関羽の耳には入った可能性は高いです。
非常に義理を重んじる任侠の人である関羽は、その事に不満を持ったでしょう。
いや、関羽の面倒くさい性格からして、激怒しても不思議はありません。
「なんだ、あの野郎は!我が君とも結び曹操とも結ぼうとはどういう料簡か!
さらに、わしの愛娘まで嫁に取ろうとはとんでもない男よ」
こうして立腹した関羽は、孫権からの縁談を蹴り両者の関係は急激に冷え込み
結果として呉の裏切りを招いていくのです。
孫権は、その後も魏に臣従したり、抜けたりを繰り返す
もちろん、孫権は臣従したとはいえ、心から曹操に屈服したわけではありません。
自分の都合の良い時は臣下顔をし、都合が悪い時には自立した群雄であり、
魏とはついたり離れたりを繰り返しています。
220年、曹丕(そうひ)が魏王朝を建国すると、孫権は呉王に封じられますが
へいへいと承諾し関羽が捕えていた于禁(うきん)を魏に返還しています。
その後も石亭の戦いで曹休(そうきゅう)を撃破すると、国力に自信をつけた孫権は、
229年に呉王の位を破棄して呉帝に即位しています。
それは、それで世渡り上手とも言えますが、関羽のような真っすぐな武将には
このような態度は変節にしか見えなかったでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
変節と言えば、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)も負けていません。
後漢を継いだ唯一の正統王朝を名乗る以上は、勝手に独自王朝を建てた
孫権についても怒らなければいけないのに、怒っていないからです。
実際、蜀の臣には、呉帝国を認めない意見もありましたが、孔明は、
「呉と断交しても魏が喜ぶだけ」と大人な判断をして孫権の皇帝即位を祝福しました。
関羽が死んでから11年も後ですが、もし関羽が生きていれば、
必ず、孔明の変節を責めて話が面倒くさくなったでしょうね。
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