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北方の雄・公孫瓚が滅びた原因は○○だ!

2017年4月20日


 

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公孫瓚

 

劉備の学友であった公孫瓚(こうそんさん)

彼は幽州(ゆうしゅう=中国の北方)を支配しており、袁紹軍との戦いを激しく行っておりました。

彼の配下には趙雲(ちょううん)などの勇将や

白馬義従(はくばぎじゅう)と言われる強力な騎馬隊を有しており、

一時は袁紹軍を凌ぐほどの力を持っておりました。

しかし公孫瓚は袁紹軍に滅ぼされてしまいます。

彼はなぜ滅亡することになったのでしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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公孫瓚が滅亡した理由その1:皇族・劉虞を殺害して人心が離れていった為

皇族・劉虞を殺害して人心が離れていった

 

公孫瓚が滅亡した理由その1として皇族の中でも一番人望を得ていた劉虞(りゅうぐ)を殺害した

ことにより人心が離れていったことに原因があるのではないのでしょうか。

劉虞は幽州の刺史として黄巾の乱で荒廃していた土地を持っている民衆達に

恩恵を与えて統治してことで多くの民衆や名士達から人望を得ておりました。

彼は公孫瓚が後漢王朝に対して反乱を起こす可能性があることを危惧して、

異民族たちの協力を受けて数十万の軍勢を持って公孫賛討伐に出陣。

劉虞は公孫賛を討伐しようと考えておりましたが配下から

「圧力をかければ彼は降伏することでしょう」と進言を受けたことがきっかけで、

軍勢を持って戦闘することをやめて圧力をかけるだけにします。

公孫賛は劉虞が自らを討伐するのではなく圧力をかけるために出陣したことを知ると

精鋭騎馬隊である「白馬義従」数百騎を率いて劉虞軍を奇襲。

圧力をかけるだけで戦闘は行われないと信じていた劉虞軍は、

公孫賛率いる軍勢の奇襲を受けて敗退してしまいます。

公孫賛は劉虞軍を打ち払うことに成功し執拗に追撃をかけて劉虞を捕えます。

そして彼は「劉虞に皇帝になる意思があった」とでっち上げの罪を作り上げて、

殺害してしまいます。

その結果彼は幽州全土を領有することに成功しますが、

劉虞を慕っていた名士や民衆達は公孫賛の行いに反発し、

劉虞の元配下達が集まって異民族と協力して公孫賛に反撃をすることになります。

公孫瓚は劉虞の元配下と袁紹軍の協力体制に苦戦することになり、

易京城に追い詰められることになるのです。

 

公孫瓚が滅亡した理由その2:名士達を活用しなかった

名士達を活用しなかった公孫瓚

 

公孫瓚は名士を積極的に登用して要職につけることをしませんでした。

その理由として彼は「俺が名士達に高い位を与えても奴らは、

自らの力で高い地位に就くことができたと考えて、

俺に忠誠を尽くさないからである」と述べております。

そのため彼は名士を優遇しないでなるべく低い地位に就けておりました。

その結果公孫瓚は君主の権力増大を図り軍事力を強大にする事で、

袁紹軍と激戦を繰り広げていくことになるのですが、

一旦敗北してしまい軍事力が低下すると名士を活用して、

領地に安定した政権をしていなかった事が原因で領地の不満が爆発。

袁紹軍の調略に呼応して大反撃を受けることになってしまいます。

そして自らが作り出した鉄壁の要塞である易京城に篭城することになるのですが、

外部からの救援を得ることができないまま滅亡してしまうことになります。

 

三国志ライター黒田レンの独り言

三国志ライター黒田レンの独り言

 

公孫瓚や呂布など軍事力に依存して、名士を軽んじてきた群雄は滅亡してしまいます。

しかし名士を重用してきた群雄である袁紹や袁術(えんじゅつ)らもやはり滅亡してしまいます。

彼らは君主として器に問題があったと考えられますが、

方針としては必ずしも正しいやり方とは言えないのではないのでしょうか。

名士を重用しすぎると君主権力が強くならずにいざって時に、

君主の命令が通りにくくなってしまいます。

そのため孫権や曹操は名士の処遇の仕方をどのようにするのが、

一番いいのかという事に考えを巡らしていくことになるのですが、

名士勢力を打破することはできませんでした。

 

参考文献 SB新書 三国志「その後」の真実 渡邉義浩・仙石知子著など

 

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

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