公孫瓚の武力の強さは独自の戦闘組織にあった

2018年7月28日


 

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公孫瓚

 

公孫瓚(こうそんさん)といえば、漢化した異民族騎兵を直轄部隊にした白馬義従(はくばぎじゅう)で有名です。

彼の軍勢は精強で烏桓族(うかんぞく)も公孫瓚の声を聴くと、大人しくなった程でした。

しかし、皮肉な事に彼の軍勢には、致命的な欠陥も含まれていて、

その為に袁紹の前に砕け散る運命を辿(たど)ったのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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ローカル群雄公孫瓚は官の力を否定し続けた

公孫瓚

 

公孫瓚と劉備(りゅうび)曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)には勢力の成り立ちに大きな違いがありました。

それは、彼が後漢王朝の権威を元に軍勢を構築したわけではない事です。

当時の群雄はほぼ例外なく、刺史(しし)(ぼく)という地方官で軍事力を行使できるポストを

自称するか任命されるかして、その権威を元に勢力を増強しました。

劉備

 

しかし、公孫瓚はそうしませんでした。

それは、公孫瓚の低すぎる官位に代表されています。

遼東属国長史、(たく)県令、中郎将(ちゅうろうじょう)騎都尉(きとい)奮武(ふんぶ)将軍、ざっとこの程度で、

奮武将軍というのは雑号(ざつごう)将軍で、無名の頃の曹操も自称した称号です。

 

なにより公孫瓚は生涯刺史にも、牧にも任命されていません。

後に劉虞(りゅうぐ)を討った時に献帝(けんてい)より、前将軍、易侯(えきこう)にはされましたが、

通常の群雄のように官の威光で兵力をまとめたのではないのです。

 



戦争の度に兵力を増やした公孫瓚の私兵集団

公孫瓚の私兵集団

 

公孫瓚は、官位に関係なく実力で私兵団を増やしていきました。

光和年間に涼州で反乱が起きると、幽州突騎3000人を率いて鎮圧、

これは、割符(わりふ)を与えられているので官が募集した騎兵でしょうが、

その後、公孫瓚は烏桓を私兵化して数を増やしています。

劉虞

 

後に赴任した劉虞と烏桓族の扱いで揉めた頃には、

公孫瓚は歩騎万人を保有し、右北平(うほくへい)に駐屯しています。

この頃の公孫瓚の官位は中郎将に過ぎません。

劉虞が兵力を与えたとも書かれていないので、恐らく自前です。

完全に公孫瓚と個人的な紐帯(ちゅうたい)で結ばれた私兵団でしょう。

黒山賊

 

191年には、青州と徐州の黄巾賊が渤海を侵して黒山賊と合流しようとし

公孫瓚はこれを阻止して大破していますが、この頃は兵力歩騎二万になり

以前の倍に増えています。

急速な勢力拡大と言っていいでしょう。

 

この力を使い、公孫瓚は上官の劉虞を倒して官位に関係なく軍事力で、

幽州、冀州(きしゅう)、青州、徐州に君臨して最盛期を迎えるのです。

 

君主論

 

地方豪族を無視し、袁紹に敗れた公孫瓚

公孫瓚

 

広大な範囲を支配下においた公孫瓚ですが、ここでも彼は、

他の群雄とは一線を画する独特の統治法を採用します。

劉備にしろ、曹操にしろ、袁紹にしろ、彼らは支配地の豪族を厚遇して

自軍の勢力に組み込む事を例外なくやっていますが、

公孫瓚は、地方豪族を弾圧して徹底排除していきました。

 

一方で非豪族で異民族との交易で富をもたらす商人や占い師は厚遇しました。

英雄記には、この辺りの事情について、

「豪族連中は自分が出世してポストを得るのを当然と思っているから

引き立てても恩義を感じはすまい?」と公孫瓚が語ったとしています。

 

これが正しければ、公孫瓚はほとんど豪族を憎んでいると言えます。

しかし、公孫瓚の態度は非常にまずいものでした。

それは、事実上地方を治めているのは、このような地方豪族だからです。

彼らを締め出した為に北方四州の政治と経済は混乱を来す事になります。

公孫瓚に迫害された豪族は勢い、名士の代表である袁紹に味方しました。

 

 

一時は死に体だった袁紹が息を吹き返したのは、冀州を韓馥(かんふく)から

奪い取った事と公孫瓚に弾圧された豪族を積極的に取り込んだからです。

公孫瓚により非業の死を迎えた劉虞の息子の劉和(りゅうわ)を指揮官にして、

(とむら)い合戦に出た辺りは巧妙で、袁紹は多くの味方を集めます。

劉虞の遺臣も袁紹に付き、公孫瓚は追い詰められたのです。

 

城は堅くても豪族に叛かれ孤立した公孫瓚に未来は無かった

城

 

鮑丘(ほうきゅう)の戦いで公孫瓚は斬首二万人という大敗を喫して易京に逃げ込みます。

ここには、三百万石の兵糧が備蓄され、10年籠城できましたが、

外からの援軍が期待できない以上、籠城は必ず失敗する運命でした。

 

唯一の味方である袁紹の敵、黒山賊と連携して袁紹を挟撃する策も、

伝令が袁紹に捕まり、逆に利用されて伏兵に掛かり大敗します。

 

以後の公孫瓚は、城に籠って打って出ず、5年の籠城の末に城を落とされて

自殺してしまうのです。

   

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

公孫瓚の軍団の武力は強力でしたし、彼に付き従うものは寝返らず、

最期までついていきました。

籠城が5年も続いたのは、彼らの結束の固さを意味しています。

しかし、地方豪族を軽んじるという公孫瓚の態度は大量の敵を産みだし

最期には自分の首を絞めたのです。

 

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