魯粛(ろしゅく)程、三国志演義と正史では人間が全く違う人物はいません。三国志演義での魯粛は、内政の才能はあるものの、温厚で人を信じやすく何度も孔明や劉備に欺かれて周瑜には、「君は内政の才能はあっても外交官の才能はゼロだ」と呆れられています。
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正史の魯粛は実際どうだったの?
ところが、正史の魯粛は、文武両道で豪勇大胆、内政も外交も一流で関羽相手にも一歩も退かず、荊州の二郡を無血で取りかえすなど知略も度胸もある名将として描かれているのです。魯粛は西暦172年に徐州に生まれています。産まれて直ぐに、父が亡くなり、祖母と暮らしていますが家は裕福であったようです。ですが、魯粛は生まれつき、非凡で豪毅な人物でした。これはと見込んだ人物や、困っている人には、惜しみなく援助をしついには、稼業も投げ出して財産を与えたそうです。
魯粛は今風で言う自主トレを開始する
魯粛は、黄巾の乱で乱世が近い事を知ると弓術、武術、馬術に凝りだし頻繁に狩りに出かけて軍略のトレーニングをしました。しかし、周辺の人々には魯粛の行動は理解されず、
「魯家には、頭のオカシイヤツが生まれた」と噂したと言います。
魯粛は義侠心から人が集まり、菫卓の乱後は、群雄の一人である袁術に仕官します。
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袁術に仕官するが袁術に愛想を尽くす
ところが行動が支離滅裂な袁術に愛想を尽かして、その下を離れ周瑜との知遇を得て、呉の孫権に仕える事になります。孫権は剛毅で遠大な構想を持つ魯粛を気に入り、同時期に仕官してきた人間は全て帰宅させたのに、魯粛だけはこっそり残し、夜遅くまで酒を酌み交わし語りあったと言います。
魯粛は孔明と劉備に会い意気投合
曹操が100万と号する大軍で呉を攻めようとした時にも、魯粛は周瑜と共に、主戦論を展開して、劉備を味方に引き入れる事を提案し、自ら江夏城に向かって、劉備、そして孔明と面会し意気投合。孔明を呉に連れてくると、連合して降伏派を説き伏せる事に成功しました。
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