ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく「ろひもと理穂の三国志・英雄の異相」のコーナーです。
三国志には個性的な容貌をしたキャラが様々登場しますが、その中でも「反骨の相」は有名です。他にも劉備の「垂肩耳」や関羽の「鳳凰眼」などがありますが、これは三国志演義が書かれた明の時代に「人相術」がブームだったからです。そのため晋の時代に編纂された三国志正史には反骨の相という記載は見られません。
反骨の相とは一体どんな形をしていたの?
反骨の相とは、頭蓋骨が後ろにやや飛び出している状態です。実際にそんな人はいるのでしょうか。見たことはありません。反骨精神という言葉がありますが、これはハングリー精神や逆境に立ち向かう勇気を示しているそうです。権勢にひれ伏すことなく反発するという意味もあるとか。意外にポジティブな意味合いが強いですね。しかし、反骨の相は「裏切り」の象徴だそうです。
反骨の相といえば、そうですね、蜀の猛将・「魏延(ぎえん)」が有名です。
蜀を支えた有能な将
「魏延=裏切者」というイメージが強いですが、五虎大将が次々と没していく中で、蜀の軍事面の柱は間違いなく魏延です。諸葛亮の北伐の際、戦場でもっとも働いたのは魏延なのです。劉備も早い段階から魏延の実力は認めており、219年に劉備が漢中王に即位すると、重要拠点である漢中の太守に魏延を取りたてています。武勇だけでなく統率力や政治力も認められたという証拠ではないでしょうか。劉備にとって魏延は有能な忠臣のひとりだったわけです。
三国志正史にも230年には魏の雍州刺史・郭淮(かくわい)の軍を破ったとあります。三国志演義では、魏の猛将・王双を討ち取る活躍をみせました。諸葛亮亡き後の蜀の中でリーダーシップを発揮しなければならない存在だったわけです。しかし、読者も魏延にそんな期待は抱きません。それは諸葛亮が「魏延には反骨の相があるから斬るべきです」と劉備に助言したことにあります。その負のイメージが魏延にはどこまでもつきまとっているのです。
魏延と諸葛亮の関係
魏延が諸葛亮に反抗的だったのは確かだったようです。北伐の際に魏延は諸葛亮に「子午谷道を一万で侵攻し、一気に長安を攻める」と進言し、却下されたときに臆病者と諸葛亮を罵ったという逸話があります。魏延と諸葛亮の微妙な関係を表しているエピソードですね。
このあたりの印象が強く三国志演義には反映されています。三国志演義の後半の主役は諸葛亮です。それに逆らう魏延はヒール役ということになります。ですから三国志演義ではことさら魏延を悪く描きます。それを読んだ読者は魏延に対し、殺されても当然だという憎悪を持つのです。実際に諸葛亮は魏延を敵と一緒に焼き殺そうとしたり、馬岱に魏延を討つよう指示をしたりしています。そこに疑問を抱く読者は少ないでしょう。
【北伐の真実に迫る】
魏延は本当に蜀を裏切ったのか
実際に魏延が蜀を裏切ったのでしょうか。三国志正史では楊儀と反目し合い、互いに相手が謀叛を起こしたと上奏し、結果として楊儀が正当であると判断されています。
そして蜀に帰還中の魏延は追討されて戦死するのです。楊儀は魏延の首を踏みつけて喜びを表したといわれています。しかし楊儀はその後も何かと不満を漏らして庶民に落とされ、流罪。どうも魏延は邪魔者扱いされて除かれたようです。「魏延謀叛」はその始末の理由のために後付けされたような気がしますね。
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三国志ライターろひもと理穂のまとめ
以前は嫌われ者の代表のようだった魏延ですが、最近になって人気が出てきていますね。魏延の持つ反骨精神が共感を呼んでいるからなのでしょうか。その実績が評価されてきたからなのか。歪められて伝わった魏延への同情なのか。現代はどうも諸葛亮の言っていることを鵜呑みにする風潮ではないようですね。
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