関羽のお供として、関平と共に絵画に描かれる周倉。三国志演義にしか登場しない架空の人物の周倉ですが、関羽への忠誠は絶対であり関羽の最後には関平と共に殉死している人です。
しかし、周倉が関羽の最後に付き合うようになったのは意外にも三国志演義でのお話。それ以前の三国志平話では、関羽と全く関係がない人物として、何と司馬懿と絡んでいました。
関羽の死後に登場し、木牛流馬で物資を運搬する係の周倉
三国志平話における周倉の役割は、ほとんどチョイ役です。しかも登場は関羽没後の北伐の時にまでずれ込んでいます。
そこでの周倉は、漢の武将として木牛流馬で物資を運搬する人として登場し、あの司馬懿をコケにする役割なのです。関羽とは無関係で司馬懿と絡む、それも意外な感じがしますね。
木牛流馬の操作方法で司馬懿をコケにする周倉
周層が司馬懿をコケにする話は三国志平話の北伐のシーンにあります。以下に、話を要約して解説しましょう。
司馬懿が塞を三里離れると、漢の武将である周倉が木牛流馬を使って食糧を運搬していた。それを見た司馬懿は鄧艾に命じて周倉を襲わせ、木牛流馬を十余りも鹵獲する。
司馬懿は、木牛流馬を便利な道具と見て、これを複製しようと、技術者を呼んできて木牛流馬を分解、あれこれ寸法を測らせて数百の複製品をこしらえた。しかし、完成させた木牛流馬は、僅か数歩歩くだけであとはビクともしなくなった。
「おかしい、諸葛亮の木牛流馬は、一度押すだけで三百歩は動いたのに、私が造らせたものは、たったの数歩で止まってしまった、諸葛亮はどんなカラクリを仕込んだのだ?」それから、数日、再び司馬懿が塞から出ると飲酒した周倉がいたので、司馬懿は周倉を捕えるように配下に命じた。周倉を捕えた司馬懿は、左右の者に命じて酒を与え飲み食いさせて完全に泥酔させた。
そのようにしてから司馬懿は「諸葛亮の木牛流馬をコピーして造ったが、一回押しただけでは数歩しか動かない諸葛亮の木牛流馬は、一回押せば数百歩も移動できるだろう?これは諸葛亮の秘術があるに違いない、もし貴様がそれを教えてくれるなら山のような金銀財宝をやろう、それで富豪になれるぞ」
それを聞いた周倉が大笑いして言うには「木牛流馬はね、木牛流馬経というお経を唱えないと動かないんだよ」
三国志演義とはオチが違うのは何故?
同じような話は、三国志演義にも登場します。
司馬懿が、魏兵を使って木牛流馬を盗ませ分解しコピーを大量に作り、物資運搬に役立てようとしますが、完成した木牛流馬はまるで動かないので、仕方なく物資を満載したまま放棄してしまいます。
そこに蜀兵が出現して、孔明に言われたように牛の舌をひねるとブレーキが外れ木牛流馬は動き出し、司馬懿はまんまと物資を奪われるという話です。話の筋はほぼ同じですが、周倉が出てこない事と舌を回すのではなく、木牛流馬経というお経を唱えないと動かない点が違います。
どうして、三国志平話では、舌をひねるのではなくお経を唱えるのでしょうか?これは、三国志がお寺の布教活動に利用された事と関係があるようです。
三国志は唐の時代以降、寺の境内でお坊さんが説法の前振りとして演ずることが多くその為に内容に仏教的な観念が入り込んだと言うのです。
関羽は道教で神格化されるより早く仏教に取り入れられ伽藍菩薩、関帝菩薩と呼ばれるようになっています。当時のお坊さんは木牛流馬経といって、適当なお経を唱えていたのではないでしょうか?
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義では、関羽とセットだった周倉が三国志平話では、まるで無関係で北伐時に司馬懿をコケにする役割になっていたとは意外ですね。
三国志平話には、周倉以外にも袁術の息子の袁襄や、呉の道化役の于樊のようなオリジナルキャラが登場しますが、一部を除き史実との整合性がない為に消滅してしまったとの事です。