『三国志演義』の物語は黄巾の乱によって幕を開けるということは皆さんも既にご存知でしょう。各地で暴れまわる黄色い布を付けた賊どもを蹴散らして力を付けていった劉備と曹操。彼らがその名を轟かせることができたのは黄巾の乱があったからと言っても過言ではありません。
そんな劉備と曹操たちにとっての肥やしとも言える黄巾賊は実は太平道という宗教を信仰する人々の集まり。太平道とは後漢末期に張角という人物によって創始された所謂新興宗教でした。張角はなぜ太平道をつくり、後漢王朝転覆を目論んだのでしょうか?
今回は黄巾賊の親玉・張角の素顔に迫っていきたいと思います。
史実では教祖になる前までは謎の存在
実は張角の幼少期についての史料は一切残されていません。
天に仇なした者のことなど記録するに値しないと考えられたのかそもそも張角の素性を知る者が一人もいなかったのかそのあたりは謎に包まれています。張角が自身に神秘性を持たせるためにその経歴をひた隠しにしていたということも十分に考えられますよね。
神書を手にして信者を増やす
そんな張角ですが、ある日、于吉という道士が持っていたという神書『太平清領書』をひょんなことから手にします。張角はこの『太平清領書』を読み、そこに書かれていたことを実践して歩きました。
『太平清領書』は既に逸書となっていて内容についてはほとんど知られていませんが、どうやら「病は気から」という考えのもと患者の気持ちを解きほぐすことによって病を治療するというようなことが記されていたようです。張角は病人を見つけると罪を告白して反省することを促し、呪符を燃やして出た灰を混ぜた水、すなわち符水を飲ませて伝説の仙人が持っていたという九節杖を使って術をかけて治療したのだそう。
しかし、これによってすべての人の病気が治ったかといえば決してそうではなかったはず。ところがどっこい、ここが張角の小ズルいところ。「信仰心の強さと治療の効果が比例する」といったようなことを言っていたのです。そのため、病を治したい人たちやその家族はますます太平道にのめり込んでいき、太平道の信者は爆発的に増えていきました。
腐りきった漢王朝に反旗を翻す
信者を増やして力を付けた張角は目の前の病人だけではなく世の中を治したいと思い始めます。その当時は後漢末期。宦官が宮廷内で権勢をふるい、政治は腐敗しきっていたのです。信者たちの中にも張角に世直しを求める声が広がっていました。
そこで、張角は大賢良師を自称し、弟の張宝と張梁、その他幹部級の信者と共に各地の信者を密かに軍事組織化。そして、かの有名なスローガンを流布しました。
蒼天已に死す
黄天まさに立つべし
歳は甲子に在りて
天下大吉
準備万端。
いよいよ後漢王朝に天誅を!というときに張角にとって思わぬハプニングが起こります。なんと腹心・唐周が裏切り後漢王朝に反乱の計画を暴露してしまったのです。このことによって追われる身となってしまった張角は計画を前倒しして蜂起を始めるように各地に伝令を送りました。
張角の死後も黄巾の乱は続いたが…
張角の鶴の一声であちこちで蜂起が勃発したのですが、その乱は真剣に世直しを求めるようなものではありませんでした。各地で暴れまわる黄巾賊は庶民たちから食料や物資を強奪したり罪の無い人々を襲ったりとやりたい放題。張角は真剣に世直しを考えていたのかもしれませんが末端の者たちはそんなことは関係なくただただ暴れたいだけだった模様。しかし、それらの乱も既に計画が知られてしまっていましたから次々に鎮圧されていきます。思うようにことが進まず、かえって追い詰められた張角は、志半ばで病死してしまいます。病を治してまわっていた教祖が病にたおれるというのは本当に皮肉なものです。
討伐軍によって墓が暴かれて張角の首が都に晒されると、黄巾賊は勢いを失ってますます弱体化していきましたが、それでも各地で黄巾を名乗る者たちによる蜂起は続きました。度重なる黄巾賊の反乱によって後漢王朝はますます衰え、群雄たちが割拠する時代が到来したのでした。
三国志ライターchopsticksの独り言
張角は太平道を開いた当初、「目の前で苦しんでいる人たちを助けられたら…」というマザー・テレサさながらの慈愛に満ちた心で活動していたのかもしれません。しかし、信者が増えていき、人々にもてはやされるようになると、その願いが世直しという大きすぎる野望になっていったのでしょう。張角自身が後漢王朝を倒して新しい世をつくることはできませんでしたが、結果的に後漢王朝が倒れて新しい時代がはじまったわけですから、もしかしたら彼の願いはある意味で叶ったと言えるのかもしれませんね。
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