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戦う思想家集団 墨家(ぼくか)とは何者?

2015年7月15日


 

 

諸子百家(しょしひゃっか)の時代の思想の中でも、

特に重要とされたのは儒家儒教)の思想です。

 

実は諸子百家が活躍した時代、儒家と双璧をなすとされた思想集団が存在しました。

それが墨家です。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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儒家に抵抗した思想家・墨子

 

墨家を創始した墨子は戦国時代の人と言われています。

最初は儒家の思想を学びましたが、その教えを差別的と考え、以降独自の思想をつくりあげていきます。

 

墨子の思想はその出自からもわかるように、反儒学的な主張を主としています。

特にその中心的な教えとされているのは、『兼愛』と『非攻』という二つの考え方です。

 

関連記事:徳と礼儀で国を維持する 儒教(儒家)ってどんな思想?(1)(概要編)

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墨家の思想・兼愛って何?

 

『兼愛』とは、あまねく全ての人々を公平に愛せよという、博愛主義の教えです。

儒家の唱える家族や目上の者に対する礼儀は偏った愛であるとし、

これを激しく批判しました。

 

墨家の思想・非攻って何?

 

『非攻』とは他国への侵略を否定する教えです。

 

ただし、戦争のすべてを否定するわけではなく、防衛のための戦いは良しとしました。

『非攻』の教えが生まれた背景には、長く続く戦乱によって国家が疲弊し、

日常的に殺戮が繰り返された悲惨な現実がありました。

 

他にも、身分の別なく賢者を登用することを是とする『尚賢』や、

為政者から一庶民までが同じ価値観を持って秩序を守ろうとする『尚同』など、

身分を差別しない平等主義的な思想がその特徴とされています。

 

それらの基本思想は『墨家十論』と呼ばれました。

 

戦闘集団としての墨家

 

平等主義的と博愛主義という、

同時代の諸子百家とは一線を画する思想を唱えた墨家ですが、

特に彼らを特徴づけたのは、単に思想を説くだけではなく

自ら城を守る戦いに身を投じて『非攻』を実践したことです。

 

墨家はもともと庶民層の技術層(大工などの職人など)が連帯することによって生まれた思想とされ、墨子自身もまた、

仕事に墨を使う工匠であっという説もあります。

 

そのことから、彼らはただ思想を説くのではなく、自らその実践者として戦うことを使命としていたのです。

 

墨家の集団は鉅子(きょし)を中心に形成

 

墨家の集団は、鉅子(きょし)と呼ばれる指導者を中心に強力な集団を形成していました。

彼らは攻められている城があればそこに赴き、

自ら武器を持って戦い、城を守りました。

墨家の集団に守られた城は不落であると言われた程でした。

 

しかし、いかに墨家によって守られた城であっても、落城することもあります。

 

諸子百家の雑家としても知られる呂不韋が記した書物『呂氏春秋』には、

守備していた城が落城した際に指導者(鉅子)であった孟勝を始めとする

400名もの墨者がその責任を取るために集団自決したことが記載されています。

 

 

後世に継承されなかった墨家の思想

 

墨家は、創始者である墨子の後、4代に渡って隆盛を誇り、

諸子百家の中にあって儒家と双璧をなす勢力を誇りました。

 

しかし、儒家が後の時代にも継承され、中国の中心的思想となっていったのに対し、

墨家の思想は秦による全土同一以降、衰退し滅んでしまいました。

 

何故、墨家は滅んだのか?

 

なぜ墨家は後世に継承されなかったのでしょうか?

『荘子』の一篇に、墨家が二派に分裂して互いに批判しあっていたことが記されています。

 

また『韓非子』には三派に分かれていたという記述があります。

 

内部分裂によってその勢力が衰退したことが、

墨家の滅亡の大きな要因であったのはたしかでしょう。

ただ、それ以上に、墨家の思想が富国強兵を目指す国家にとっては邪魔な存在であったことが、

滅亡の最大の原因であったように思えます。

他国を侵略し、自国を拡大しようとする国家にとって、

墨家の『非攻』の教えは障害でしかありえません。

 

博愛と平等を重んじ、他国を攻めることを戒めた墨家の思想。

現代の我々にとっても、それは魅力的な理念であることは確かです。

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石川克世

石川克世

三国志にハマったのは、高校時代に吉川英治の小説を読んだことがきっかけでした。最初のうちは蜀(特に関羽雲長)のファンでしたが、次第に曹操孟徳に入れ込むように。 三国志ばかりではなく、春秋戦国時代に興味を持って海音寺潮五郎の小説『孫子』を読んだり、 兵法書(『孫子』や『六韜』)や諸子百家(老荘の思想)などにも無節操に手を出しました。 好きな歴史人物: 曹操孟徳 織田信長 何か一言: 温故知新。 過去を知ることは、個人や国家の別なく、 現在を知り、そして未来を知ることであると思います。

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