こんにちは。古代史ライターのコーノヒロです。
それでは、前回に続き、邪馬台国の女王として卑弥呼が倭国を平定したお話の完結編です。
どうぞ御一読ください。
前回をおさらいすると、卑弥呼の邪馬台国の女王即位でが190年頃で、『三国志』の英傑たちの生きた時代と重なり、
曹操にも直接服従の意を示した可能性があるという話でしたね。
それと併せて、卑弥呼の長寿政権の可能性があるということでした。
果たして、これは、あり得た話なのでしょうか?
卑弥呼はもしかして二人いたのではないかという説もありますね。詳しく見ていきましょう。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
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卑弥呼は長寿政権だった!
前回お話したように、卑弥呼は190年代初めあたりに、王位についたということになるでしょうか。
そして、亡くなったのが、247年あたりとするのが通説です。
つまり、約50年以上の長期政権だった可能性が出てきたのですが、結論から言って、あり得たことでしょう。
根拠としては、例えば、『魏志倭人伝』に、倭国に住む人々の記述として、
「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」
とあります。
他に、『後漢書倭伝』では、
「多くは寿考、百余歳に至る者甚だ衆し(おおし)」
との記述があります。
倭国の人々(倭人)は、この頃から長寿であり、90歳〜100歳ほど生きる人もたくさんいたということです。
さらに、『魏志倭人伝』にある、女王に即位後の卑弥呼について、
「王となりしより以来、見る者少なく」との記述があります。
又、『後漢書倭伝』には、「見るある者少し」との記述があります。
つまり、女王になってからの卑弥呼の顔姿を見た者はほとんどいなかったのです。
それらを併せて考察すると、238〜239年頃に卑弥呼が魏の皇帝・曹叡に難升米を派遣したとされていますが、
その頃は、卑弥呼は、かなりの高齢であったと考えられるでしょう。
老齢となり、大勢の前に顔を見せられなかったのが内実なのではないでしょうか?
特に、外交といった諸外国との交渉などの政務は、難升米に全面委譲していた可能性は高かったでしょうか。
そのため、難升米の権限や発言力は高まっていったのでしょう。
卑弥呼降臨(天孫降臨)の内実
それでは、ここまでの、卑弥呼の邪馬台国女王の即位と倭国平定までの軌跡を振り返っていきましょう。
まず、卑弥呼(アマテラス)は 朝鮮半島の「三韓」からやってきた王族でした。
「三韓」の王のイザナギの命でやってきたのです。
まず、朝鮮半島から近い「北九州」が真っ先に併合されます。
同時に、邪馬台国が成立したと考えられそうです。
同じく、「三韓」の王族のスサノオは、こちらも朝鮮半島から比較的近い「出雲」を根拠地にして、「三韓」の勢力を拡大する予定でした。
しかし、スサノオは倭国に帰化し、出雲王国という独自の領土を築き、領土を拡張します。
しかも、日本列島の大半を統治するまでになったのです。
それは次代の大国主に継承されます。
「三韓」の王のイザナギは、スサノオの裏切りに怒り心頭だったでしょう。
そこで、卑弥呼(アマテラス)に、スサノオの出雲王国を制圧するように命じます。
ただ、可能な限り、穏便に、平和的にことを運ばせるようにという指示だったでしょう。
戦となっては、北方の公孫氏や高句麗などの勢力からの圧力に耐えきれないかもしれなかったからです。
しかし、そのためか、「記紀」(古事記・日本書紀)の話にあるように、アマテラス(卑弥呼)側からの再三の使者が、
出雲王国側に丸め込まれたという結果が生まれたのです。
業を煮やしたイザナギ王かアマテラス(卑弥呼)は、軍勢を出雲王国の王都へ向け侵攻する姿勢を見せたのです。
さすがに、そうなってしまっては、武力が劣っていたからか、戦そのものを嫌ったためか、出雲王のオオクニヌシも、受け入れざる得なくなり、
民を守るために併合を許可したのです。
そして、アマテラス(卑弥呼)の邪馬台国が出雲王国の領土を制圧します。
これが現在では「天孫降臨」の話として伝わっています。
そのとき、邪馬台国の都は、出雲王国が本拠地としていた「大和」へ遷都したのです。
これで、卑弥呼(アマテラス)による「倭国大乱」を制した形となったのです。
つまり、このとき「三韓」の勢力によって倭国が統一されたといってよいかもしれません。
ということは、一時期でも、「倭韓連合構想」は、実現したという見方が合っているのではないでしょうか?
但し、それがすぐに崩壊したので、歴史にも埋もれてしまったのではないでしょうか。
それは『三国志 韓伝』内の以下の記述が根拠となるでしょうか。
要約しますと、建安年間(196年~220年)に、遼東半島に勢力を張っていた公孫氏の公孫康が、
「楽浪郡」と呼ばれた地域の南に「帯方郡」を立てるのです。
これが強盛に出ます。
すると、韓(「三韓」のこと)は防戦となり、ついには、服属という形になった、ということです。
「三韓」が公孫氏の帯方郡に属したことで、自動的に邪馬台国が中心となっていた「倭国連合」もそれに属したのです。
「倭韓連合構想」はここに潰えたのです。
しかし、一筋縄ではいかず、ただ服従した訳ではなかったのが、邪馬台国の女王・卑弥呼だったのではないでしょうか。
なぜなら、卑弥呼は、魏の皇帝の曹叡から、「親魏倭王」の称号を得るほどに独立した存在感を出しているからです。
どうやら、どの歴史書を見ても、魏から王の称号を与えられたのは、中央アジアの大月氏国の王と倭国連合の邪馬台国女王の卑弥呼のみと
伝わっているようです。
「三韓」から完全に独立し、さらには、帯方郡からも抜け出した形で、倭国連合の代表国の邪馬台国女王としての存在感が際立っていますね。
日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門」
「三韓」から寝返った卑弥呼
これは、つまり、卑弥呼が「三韓」を離れ、倭国に帰化し、倭国連合の代表の邪馬台国女王として、
独自の道を切り開く政策を選んだという証拠だったのではないでしょうか?
それは、やはり、大陸の、曹操を開祖とする魏王朝の存在が大きかったと言えるでしょう。
要は、距離を置きたかったのではないか?と思えるのです。
飲み込まれないために。
朝鮮半島だと、曹操だけでなく公孫氏の勢力に飲み込まれる恐れが強かった訳ですから。
トカゲのシッポ切りならず、頭切りとでも言えるでしょうか?
つまり、シッポや胴体だけで 生き延びて蘇ったという例えができましょうか。
となれば、卑弥呼の女王としての手腕はかなり長けたものだったと言えるでしょう。
あるいは、誰か補佐的な役割を果たした者で、外交手腕に長けた者がいたということでしょうか?
それが、『魏志倭人伝』にも出てくる、男弟なのか、それとも、難升米が、もうこのときから、卑弥呼政権の総理大臣的役割を果たしていたのか?
新たな疑問も出てきますね。
特に気になるのは、男弟の存在です。
この人物とは何者だったのでしょうか?
卑弥呼(アマテラス)の弟ですから、一瞬、スサノオかと想像してしまいますが、敵対していた、出雲王国の長だった存在が、簡単に服従するのか?
という疑問もでてきますね。
さらに、疑問として出てくるのは、倭国平定後の邪馬台国の卑弥呼女王に反抗した勢力についてです。
それは、狗奴国の「卑弥弓呼」の存在ですね。
要は、完全平定ということではなかったということなのですが、この「卑弥弓呼」とは何者なのでしょうか?
卑弥呼と似た名前ですから、同族なのか?とも思えてきますね。
古代日本史ライターコーノ・ヒロの独り言
次回は、これら、男弟や卑弥弓呼について探っていきたいと思います。お楽しみに。
【参考文献】
◆『東アジア民族史1
正史東夷伝 』
井上秀雄 ほか訳注
平凡社
◆魏志倭人伝を読む(下) 卑弥呼と倭国内乱
歴史文化ライブラリー 105 佐伯有清 著
[吉川弘文館]
◆『魏志倭人伝』 石原道博 編訳 (岩波文庫)
◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)
◆マンガでわかる古事記 清水義夫 著 ・ フリーハンド〔マンガ〕(池田書店)
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