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卑弥弓呼とはどんな人?狗奴国の王であり邪馬台国の抵抗勢力を解説

2019年2月24日


 

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狗奴国の王・卑弥弓呼

 

こんにちは。コーノヒロです。今回は、前回に続き、邪馬台国(やまたいこく)の女卑弥呼(ひみこ)に抵抗した、狗奴国(くなこく)の王・卑弥弓呼(ひみここ)の正体について探っていきます。どうぞお楽しみにください。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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老兵は死なず ただ消えゆくのみ?スサノオの影

スサノオノミコト(日本神話)

 

まず、結論から言って、狗奴国の王・卑弥弓呼は、スサノオノミコト(須佐之男命)だったと考えられるということです。

 

スサノオは、『日本書紀』や『古事記』に登場する神様で、ヤマタノオロチを退治したことで有名ですね。

さらなる功績として、邪馬台国の前身とされる、出雲(いずも)王国の領土拡大と発展に貢献したと、前にお話してきました。

その後、婿殿になったオオクニヌシ(大国主)を後継者として、王の座を譲ったのです。

しかし、後の消息は、実は、はっきりと書かれている書物はないようなのです。

 

アマテラス(古事記)

 

「天孫降臨」で、アマテラスオオミカミ(天照大神)[=卑弥呼]の率いる軍勢によって、出雲王国が邪馬台国に呑まれた時点で、スサノオの消息はつかめていないのです。

死んだとも、生きていたとも伝わっていません。

 

しかし、卑弥呼(ヒミコ)と呼び名が似ている、狗奴国の卑弥弓呼(ヒミココ)の存在は、兄弟か何か、血縁関係とも見られています。

 

すると、アマテラス=卑弥呼とされる説を、前々からご紹介していますから、アマテラスと血縁のあった、兄弟であった、スサノオが卑弥弓呼だったと考えるのは、自然な流れでしょう。

 

 

 

熱田神宮に奉られている「草薙の剣」とは?

 

さらに、以下の事実も有力な根拠になるでしょうか。

 

それは、「熱田神宮(あつたじんぐう)」の存在です。

 

熱田神宮は「草薙(くさなぎ)の剣」を奉っているからです。

 

スサノオが草薙の剣でヤマタノオロチを倒す(古事記)

 

草薙の剣と言えば、スサノオが、ヤマタノオロチを退治したときに使ったとされる剣です。

しかも、熱田神宮は、濃尾平野の一角にあります。

 

この二点を併せて考えると、

 

東海の濃尾平野は、スサノオの管轄する領域だったでしょう。

さらに、濃尾平野は狗奴国の領域だったという前回からの見解から、

 

スサノオ= 狗奴国の王=卑弥弓呼

 

という構図が出来上がるでしょう。

 

 

 

兄弟対決 卑弥呼 vs 卑弥弓呼 ! (想像史)

アマテラスVSスサノオ(古事記)

 

つまり、

アマテラス vs スサノオ

 

は、

 

邪馬台国VS狗奴国

 

卑弥呼 [邪馬台国] vs 卑弥弓呼 [狗奴国]

と同義であったと言えたのではないでしょうか。

 

 

それでは、このあたりの経緯を少し物語ってみます。

 

スサノオは 出雲王の王位を譲位後、東海の濃尾平野へと隠居しました。

 

その後、天孫降臨で、姉のアマテラスこと卑弥呼が 出雲王国を取り込みました。

 

その時は、スサノオは動けずにいました。

 

それは、鈴鹿山脈、紀伊山地 など、天然の要害があり、簡単に大和地域への侵入はできなかったからでしょうか。

 

大軍が抜ける道があるとすれば、近江国の琵琶湖近くの 「関ヶ原 」と考えられます。

 

しかし、そこは、既に、アマテラス(卑弥呼)の軍によって、山手中心に抑えられていて、

進軍しようものなら、弓矢の部隊などが上手から待ち受けていた状況だったかもしれません。

 

ただ、スサノオ(卑弥弓呼)が 直ぐ様に動けなかったのは他の理由もあったかもしれません。

 

それは、やはり、アマテラス(卑弥呼)に後ろ楯がいたことでしょうか。

 

 

前からの話のおさらいをしますと、天孫降臨の時、 アマテラス(卑弥呼)は、「三韓」の王族として、 イザナギ王(三韓の「馬韓」の王だったされる)の命で 北九州を足掛かりに、大和へ進軍してきたのでした。

 

そして、三韓の背後には、遼東半島の公孫氏の勢力がいた訳ですし、

 

さらに、その背後には、依然として中国大陸の後漢王朝(ごかんおうちょう)が存在していました。

 

曹操

天孫降臨が190年代にあったとすると、大陸では、黄巾の乱は終息に向かいつつも、群雄割拠の時代に入っていました。190年代後半になると、曹操(そうそう)の勢力が抜きん出始め、後漢王朝の実権を握りつつあった頃だったでしょう。公孫氏の勢力は曹操を服属の意を示していました。

 

つまり、後漢王朝とその背後にあった曹操を意識して、 スサノオは、易々と動けなかった可能性もあったのではないでしょうか?

 

 

それでは、なぜ、後になって、公然と邪馬台国に抗戦したのでしょうか?

 

死期を悟る曹操

それは、つまり、曹操が死んだ後だったからではないでしょうか?

邪馬台国と狗奴国の戦の時期は、後漢王朝が滅亡し、魏王朝が成立していた頃です。

曹操が生きていた頃よりは 勢力が 弱まったように見えたと言えるでしょうし、

さらに、大陸は、本格的に 、 呉、 蜀 が三つどもえで争う三国時代に入った時期でした。

 

つまり、狗奴国のスサノオにとっては、後顧の憂いが少なくなったということでしょうか?

 

邪馬台国と魏の兵士

 

邪馬台国に攻撃をしかけても、魏の軍隊は、加勢できないだろうと判断したのではないでしょうか?

 

スサノオにとっては、出雲王国の復権をかけた争いだったと言えるでしょう。

そして、戦いが行われたのは、

東西の関所としての「関ヶ原」だったかもしれません。

 

つまり、第一次 関ヶ原の戦いとは、邪馬台国VS狗奴国だったという見方ができるかもしれませんね。

 

 

 

卑弥弓呼とはどんな人?のまとめ

狗奴国の王・卑弥弓呼

 

東海地域や関ヶ原はとても日本古代史上でも重要な拠点だったということですね。

次回は、この地域に縁のある事件や人物たちについて、古代も含めて詳しく探っていきたいと思います。

お楽しみに。

 

 

【参考資料】

 

◆東国尾張とヤマト王権

― 考古学から見た狗奴と尾張連氏 ―

(大阪府立近つ飛鳥博物館)

◆『古代史疑』 松本清張 著(中公文庫)

◆『出雲と大和 ― 古代国家の原像をたずねて ―』村井康彦著(岩波新書)

◆『伊勢と出雲 韓神と鉄』 岡谷公二著(平凡社)

◆『魏志倭人伝』 石原道博 編訳 (岩波文庫)

◆『東アジア民族史1

正史東夷伝 』

井上秀雄 ほか訳注

(平凡社)

 

日本古代史を分かりやすく解説「邪馬台国入門

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コーノ・ヒロ

コーノ・ヒロ

歴史好きのライターです。 福祉関係の仕事をしつつ、物書きの仕事も色々としています。 小説や詩なども、ときどき書いています。 よろしくお願いします。 好きな歴史人物 墨子、孫子、達磨、千利休、良寛、正岡子規、 モーツァルト、ドストエフスキー など 何か一言 歴史は、不動の物でなく、 時代の潮流に流される物であると思っています。 それと共に、多くの物語が生まれ、楽しませてくれます。

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