「乱世の奸雄」と言われた曹操は三国志演義の方では悪役のように描かれることが多いものの、その能力は三国志の登場人物の中でもトップランクの持ち主です。
優れた頭脳の持ち主であり、窮地を才覚で切り抜ける姿は幾度となく見ることができます。
しかしそんな天才とも言える曹操も、その人生において失敗が一度もなかった訳ではありません。今回のお話の舞台はそんな曹操がやらかしてしまったことで有名な宛城の戦いととある「美女」についてです。
宛城の戦いの経緯
宛城の戦いは、曹操と張繍の戦いです。ある日曹操が苑の地に進軍してきます。
この当初、張繡には曹操の軍師として名高い賈クが付いていました。賈クは非常に優れた先見の明を持っていたので、曹操とは真っ向から戦うことは避けて一度曹操に降伏、後に再び時勢を見て戦うことを進め、張繡はこれを受け入れます。
張繡は曹操に降伏、これに気を良くした曹操は張繡をそのまま苑の地を治めさせるようにして、その地に自分も滞在することにしました。腹の探り合いもあったのでしょうが、この頃は曹操と張繡は対立してはいませんでした。
「少しばかり三国志演義の話をしましょう」
これはあくまで三国志演義の話ですが、張繡には義理の叔母に、鄒氏という女性がいました。
叔父の張済は既に亡くなっていたので、鄒氏は未亡人です。そして鄒氏はとても美人でした…そこで曹操は鄒氏を自分のお妾さんにしてしまったのです。
自分の一族の女性すら我が物にする傍若無人な曹操に腹を立てたのか、亡き叔父を貶める振る舞いに怒ったのか、はたまた後妻故にまだまだ若く美人な鄒氏と自分が…と思ったのかは定かではありませんが、張繡はこれに激怒。
曹操も張繡が自分に激怒していることを知ると張繡の暗殺計画を立てますが、行動は張繡の方が早く、曹操に夜襲をかけます。つまり三国志演義では宛城の戦いは曹操の女癖の悪さが招いたように描かれています。
鄒氏という女性の謎
そしてここで振り返ってみたいのは「鄒氏という女性」です。実はこの女性は、正史には登場しません。
「張済には妻がいた」「その妻は曹操の妾になった」この記述があるのみで、名前も判明してなければ美女とも書かれていないのです。ただしこの人物に関しての記述が、後漢記には乗っています。こちらによると張済の未亡人で絶世の美女、となっています。ただしこの記述は前述したように正史には登場していません。
おそらく陳寿がこの記述を採用しなかったからだと思いますが、一人の女性で争いが起こるという似たような話が、三国志には出てきますよね?
これもまた正史には記述のない貂蝉という女性がきっかけとなって両者の仲が決定的に悪化、争いが起こります。この非常に似た構図から、ある仮説を考えて見ました。
どうしてこのような女性像が生まれたのか?
どうして曹操が張繡に負けたのか、しかも夜襲をされて嫡男甥っ子大切な家臣と一気に失うという大敗北。
そこに何があったのか?何かなけりゃあおかしいよなぁ?きっと何か理由があったんだ!
だってそうじゃなければあの兵法の大家、天才と言っても過言でない曹操がこんな無様な負け方をするはずがない!だとしたら理由は何だろう…女性にたぶらかされた?だったら凄い美女だったんだろう!呂布もそうだったし!
…あくまで想像ですが、鄒氏はこういったイメージから生まれたのではないでしょうか?
演義ではオリジナルキャラクターが幾人か登場しますが、完全に元ネタがないという人は殆どいません。
そこで張済の妻を利用して鄒氏、というキャラクターが出来上がったのではないでしょうか。
因みに三国志演義では鄒氏は曹操がいなくなった後に張繍から「曹操に身を任せた」と激怒されて切り殺されて退場します。
貂蝉と違って悲劇的な演出が盛り込まれていないところを見ると、あまり人気の出なかったキャラクターだったのかもしれませんね。
三国志ライター センの独り言
今回は宛城の戦い、と言いつつもその背景、その背後にいた女性にスポットと妄想を当ててみました。
三国志と三国志演義の違いを見るのはファンなら一度はやると思いますが、その中でどうしてそんな人物像が生まれたのか、そこにも注目してみて下さい。
ただの演出、創作と三国志演義を切り捨てずに注目していくと、色々な人物を深読みできて面白いですよ。
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