今回は今川義元が桶狭間の戦いで負けた原因に注目します。これまでの今川義元に関する記事では、寄親・寄子制で組織化された軍隊と鉄砲による集団戦法について考察しました。尾張国を統一したばかりの織田信長は寄親・寄子制や鉄砲による集団戦法を参考にしたといわれています。
この記事では、最初に寄親・寄子制について解説します。桶狭間の戦いで今川義元が2万5千の兵を動員した経緯、寄親・寄子制の弱点を考えます。
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寄親・寄子制とは?
今川義元の父・今川氏親の代から組織化された領国経営を行っていました。この制度を寄親・寄子制といいます。寄親・寄子制は次のような制度です。今川家の家臣に知行を与え、知行地に赴任します。赴任した家臣を寄親といい、知行地にいる百姓を寄子といいます。
寄親は知行地にいる百姓を保護します。保護された寄子は寄親から出兵の命令が出たら素早く行動します。寄親からの命令を素早く寄子に伝達できる指揮命令系統を確立していました。
これまでの寄親・寄子制による戦い
今川義元は寄親・寄子制による組織を確立すると、鉄砲による集団戦法を実践し、小豆坂の戦いで織田信秀の領土だった三河国を手に入れました。組織化された集団戦法によりほとんど負けることなく駿河国・遠江国・三河国の戦国大名となりました。これまでの今川義元の戦いにおいて、多くても1万までの兵を動員していたという記録が残されているだけで、桶狭間の戦いのような大軍を率いたという経験はありません。
なぜ桶狭間の戦いで大軍を動員したのか?
桶狭間の戦い直前の尾張について取り上げます。1558年に織田信長は反対する勢力を一掃し、尾張を統一したばかりでした。信長は今川義元の寄親・寄子制を手本にした軍隊を組織しようとしましたが、家臣全員が心から従っているわけでもなく、小国であることから数千の兵しか集められないと考えられていました。
なぜ、今川義元は小国の尾張に2万5千の大軍を動員したのでしょうか。今川義元が織田信秀との戦いで、信長の初陣のときのことが忘れられないことが要因として挙げられます。織田信長の初陣は14歳でした。初陣で三河国の吉良大浜を占領していた今川軍を攻撃します。信長は兵800を率いて、火を放ち、夜通し攻撃を続けた結果、今川軍は撤退しました。以後、今川義元は織田信長を警戒します。
寄親・寄子制の弱点とは?
桶狭間の戦いは今川義元の軍の油断が原因といわれています。まず、桶狭間の戦いの過程から話を進めます。今川義元は尾張国の南半分の城主を織田方から今川方に寝返らせるとともに織田軍の砦と城を次々と落としました。今川義元は織田信長の砦や城を順調に落とす一方で、順調に戦を進めたことや雨が降ったことで休みました。
このことがきっかけで大将から寄親までの指揮命令系統が乱れ、寄親から寄子(末端)まで油断が生じる要因となりました。織田信長は今川義元軍の油断と隙をついて、義元の本陣がある桶狭間に向けて奇襲を仕掛けます。このとき、今川軍は突然の奇襲で一切抵抗することができませんでした。結果、今川義元は織田信長に討たれ、今川軍は敗走しました。
戦国時代ライターオフィス樋口の独り言
今回は今川義元が桶狭間の戦いで負けた原因について考えました。最初に、寄親・寄子制という組織の解説から話を始めました。今川義元は寄親・寄子制という組織で連戦連勝を重ねましたが、桶狭間の戦いのように数万を超える大軍を率いた経験がありませんでした。今川義元は寄親・寄子制の弱点としてこのような組織の乱れを想定していたのか気になります。
最後に、桶狭間の戦いから数十年後に関ヶ原の戦いのように数万以上の大軍が衝突する戦いが起こります。桶狭間の戦いの弱点を踏まえて、戦国武将が組織内に油断が生じないようにどのような工夫をしたのでしょうか。今後の課題にしたいと思います。
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