三国時代に宗教国家を作り上げた張魯。
彼は漢中の地を治めていましたが、曹操軍の攻撃を受けて降伏します。その後張魯は曹操から侯の位を授与され政権へ組み込まれ、216年に亡くなりますが、張魯が率いていた五斗米道と言われる教団は彼の死後どうなったのでしょうか。
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五斗米道の名前の由来は?
張魯の祖父・張陵は蜀にある鵠鳴山と呼ばれる山に入って道教を修行。その後張陵は鵠鳴山を下山した後、民衆へ道教を布教していきます。民衆の一部は張陵から道教を学び、道教を教えてくれた張陵へ五斗のお米を謝礼としてあげていました。
上記が由来となって「五斗米道」と呼ばれることになります。
どのような活動をしていたの??
張陵が布教した宗教はどのような教えを広めていたのでしょうか。正史三国志張魯伝によると「人を騙すなと教え、病気に罹った者へ自らが犯した罪の内容を告白させていた」と記されています。また「典略」によれば五斗米道は「静かな部屋へ病人を誘い、自らの罪を告白させた後、自分の反省させる。
その後鬼吏が病人の姓名を書かせ、自らの罪に服する意味合いの手紙を三通書き一通を山の頂上へ。もう一通を地中へ埋めて、最後の一通を河へ沈める
この方法を【三官手書】と呼ぶ」と病人の病気を治癒させる方法が記されています。このように張陵は布教活動をし、息子の張衡・孫の張魯の時代になっても変わらずに布教活動を継続。
張魯はその後、劉焉から命じられて漢中太守を殺害した後、漢中を占拠します。その後張魯は劉焉の息子・劉璋が母と弟を殺害した事が契機となり劉璋から独立。張魯は漢中で宗教政権を確立し、曹操に降伏するまで独立を続けるのでした。
張魯が確立した宗教政権は五斗米道の布教活動をしつつ、生活に困っている人々や旅人へ腹の減り具合を聞いて、肉やコメを無償で食べさせていました。だが生活困窮者や旅人が肉やコメをいっぱい食べたいからと言って嘘の申告をした場合、病にかかる呪いをかけていたそうです。
とっても怖いですね。上記のような罰則はありましたが、五斗米道は漢中に住んでいる民衆や異民族から支持を受けていました。
張魯の死後五斗米道はどうなるの??
張魯は漢中で宗教政権を確立していましたが、曹操軍の攻撃を受けて降伏。その後張魯は曹操から侯の位を与えられ、手厚い厚遇を受けていました。しかし張魯が曹操政権に組み込まれた事によって、五斗米道の政権も終わりを迎え、五斗米道の信者達も曹操の領土となっている北方へ強制的に移動させられます。
正史三国志にはその後五斗米道がどのようになったのか記されず、張魯が216年に亡くなり、彼の息子・張富が跡を継いだ事だけが記されていました。しかし五斗米道は信者達が張魯と共に北方へ移動した後も小規模ながら布教活動を継続し、司馬炎が建国した西晋の時も活動をしていたそうです。
その後司馬炎が建国した西晋が滅亡。五斗米道の信者達は東晋が江南で建国された時期と同じく江南へ避難。その後五斗米道の名称は正一教と名を変えて、現在の中国で布教活動をしているそうです。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は張陵・張衡・張魯の三代が脈々と続けてきた五斗米道について紹介しました。三国志の時代は宗教とも密接な関係があります。
例えば張角を教祖として後漢王朝に叛旗を翻した太平道が挙げられます。太平道は三国志を知っているならほとんどの人が聞いた事のある宗教名だと思います。また三国志時代と密接な関係があるのは、五斗米道や太平道だけではありません。
仏教も三国時代と関連する宗教の一つとして挙げることができるでしょう。仏教は後漢王朝の明帝時代から伝わってきており、三国時代にも陶謙の配下で笮融が大寺院を建立し、後に中国に仏教を広める基礎を作り上げることになったそうです。
上記で挙げた宗教は太平道以外、三国時代から現代にも残っており、三国志と宗教が関連性を持っていた事がお分かりになったと思います。