大人気春秋戦国時代漫画キングダム、現在漫画では、朱海平原の戦いも、いよいよ終盤になっていますが、
今回は本編ではなくキングダム雑学を紹介します。
さて、キングダムでも屈指の激戦として知られる合従軍編の終盤、蕞の戦い。
こちらは史実でも実際にあった事が分かっていますが、もし蕞が陥落していたら咸陽はひとたまりもなかったってご存知ですか?
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この記事の目次
攻められたら終了咸陽には城壁がない
蕞攻めの時に、kawausoはこんな感想を持っていました。
「仮に蕞が陥落しても、その背後には帝都咸陽が控えている。蕞だって民兵を駆使して7日間頑張ったのだから、
数十万都市の咸陽なら例え兵力が少なくとも城壁を固守すれば、さらに長期間持つだろう、なんで大騒ぎしているのか?」
しかし、このkawausoの考えは考古学的に非常に危険なものでした、理由は咸陽からは城壁の跡が発掘されていないのです。
咸陽城の発掘が始まったのは1959年のことで、1974年から翌年にかけ宮殿の跡が発掘されました。
ところが、どこを調べても咸陽に城壁があった痕跡は発見されていないのです。
中国の都市は例外なく城壁に覆われているのが普通で咸陽から城壁が出ないのは、異例の事として学者の間でも見解が分かれています。
一つの考えとしては、項羽によって咸陽が蹂躙された時に城壁の素材が略奪・転用されたという説もありますが、
それにしても痕跡も残さずに城壁を持ち去るのは、やはり不可能でしょう。
今後、新たな発見があれば、また歴史は塗り替わるかも知れませんが、少なくとも今の所、咸陽の城壁は見つかっていないのです。
龐煖は何でも知っていた?
史実の函谷関の戦いは紀元前241年、トップは楚の孝成王、前線司令官は楚の春申君で
韓・魏・趙・衛・楚の五カ国の合従軍で構成された合従軍です。キングダムと違い李牧の名前は出てきません。
しかし、この時の合従軍は記録が乏しく、秦の記録である始皇本紀によると、
「五カ国連合軍は合同し秦を撃ち寿陵を取った、秦が出兵すると五国の兵が引いた」
と記録され、楚の記録である楚世家には、
「諸侯と力を合わせ秦を攻撃したが戦い不利で引き上げた」
このようにあるだけで、動員兵力や、参加した将軍の名前もどこに布陣したかも明らかではありません。
ですが、趙世家には、合従軍がどうやら二正面作戦を取っていた事を匂わす記述があります。
「龐煖は、趙、楚、魏、燕の四カ国の精鋭部隊をもって秦を攻め蕞の城を囲んだが、攻め落とす事は出来なかった」
つまり、総司令官は李牧ではありませんが、蕞攻めは実際にあり、合従軍は函谷関と武関を狙う正面作戦を取っていたのです。
秦の関所は函谷関だけではない
しかし龐煖と四カ国の軍隊は、どこから秦の領地に侵入したのでしょうか?函谷関以外に秦に入り込める道があったのでしょうか?
これは、キングダムでも出てきましたが、函谷関以外に武関という関所もあったのです。
漫画では、李牧は隠密行動で大軍の移動には向かない南道を進み4万もの大軍を集結させて、次々と小城を陥落させた事になっています。
史実では、龐煖の率いる四カ国連合軍は合従軍本隊とは別に洛陽から南下し武関を目指し、ここを陥落させて侵攻したようです。
龐煖ばかりではなく、漢の高祖劉邦も函谷関を避けて武漢を通過して咸陽を落としています。
実は咸陽が含まれる関中には、函谷関と南の武関だけではなく、西には、隴関・大散関、北の蕭関と5つの関所が存在しました。
逆に言うと、この五関を万全に守っていれば、敵の侵攻を受ける心配も低く歴代の秦王は咸陽に城壁を設けなかったのかも知れません。
※秦の時代には隴関はまだ無かったようです。
あるいは史実の龐煖も、咸陽には城壁がない事を知っていて、蕞を落とせば、戦いは終わると考えていたかも知れませんね。
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