呉(222年~280年)の神鳳元年(252年)に呉の初代皇帝孫権は亡くなりました。後を継いだのは孫亮でした。しかし、彼は本来は正式な後継者ではありません。
本来は孫権の長子の孫登が継ぐべきでしたが彼はすでに、この世を去っていました。孫登とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は呉の第2代皇帝になる予定だった孫登について解説します。
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継母の徐夫人に教育される
孫登は建安14年(209年)に孫権の長子として誕生しました。ちょうど劉備と孫権が荊州の領土権をめぐって争い始めたころです。
母親は誰だか分かっていません。どうやら身分が低かったらしく教育に関しては孫権の妻である徐夫人が行っていました。曹操の長子である曹昴の教育を継母である丁夫人が行ったのと一緒です。
だが、順風満帆な孫登の生活に悲劇が訪れました。建安17年(212年)に孫権は呉の政治の中心地を建業に移すことにしました。その時に徐夫人の性格が嫉妬深いという理由で、第1夫人の座から引きずりおろすことを決定します。
筆者の正直な気持ちを言うと理由になっていません。実は孫権は当時、歩夫人(本名 歩練師)という女性を寵愛していました。要するに徐夫人に飽きたので、何でもいいから口実をつけて追い出したかったのです。可哀そうな徐夫人は追い出されました。孫登は実母だけでなく、継母も失ってしまいました。
徐夫人への恩は忘れない孫登
孫登は徐夫人から育ててもらったので、彼女に対して莫大な恩を感じていました。生みの親ではありませんが、孫登にとっては本当の親も同然です。別れてしまっても彼女との交際はありました。徐夫人から衣服が届くと、体を清めてその服を着ていました。また、新しい継母となった歩夫人に対しても礼儀は欠かしません。彼女から贈り物が届くと丁寧に受け取って子としての礼儀を尽くしました。
孫権のわがままを黙らせる孫登
魏の黄初2年(221年)に孫登は皇太子に任命されます。だが、彼はこれに対して反対意見を述べました。
「根本が確立されてこそ、正しい道も生じてくるものでございます。まずは皇太子の母親を皇后に立ててください」
孫権は「お前の母親はどこにいるんだ?」と尋ねます。すると孫登は「呉の街にいます」と答えたので、孫権は黙ってしまいました。この後、親子の間で何が起きたのかは不明ですが結局、孫登は皇太子になっています。
孫権が無理やり孫登を皇太子に立てたのか、それとも孫権が孫登に譲歩する案件でも出したのでしょうか?
それから時は流れて黄龍元年(229年)に、孫権は皇帝に即位したので歩夫人を今度は皇后にしたいと言いだします。ところが、これに対しても孫登が意見をしました。
「皇后にするのでしたら徐夫人です!」と言います。どうやら、徐夫人はこの時点でまだ存命したようです。
結局、この事件は決着がつかずに、やがて徐夫人も歩夫人も亡くなりました。孫登は見事に孫権のわがままを防いだのです。なお、腹いせなのか不明ですが孫権は歩夫人の死後、彼女に皇后の位を授けています。
三国志ライター 晃の独り言
皇太子として立派な業績を残した孫登でしたが、残念なことに赤烏4年(241年)にこの世を去りました。33歳の若さでした。
孫登は正史『三国志』の著者である陳寿が、べた褒めをするくらいの人物として描かれています。それだけ徐夫人の教育が間違っていなかったし、側近として仕えていた諸葛恪・張休・顧譚・陳表が遊びではなく、しっかりと帝王教育を教えたことが分かります。
もちろん親の孫権や後の呉の皇帝と対比させるための誇張と考えられますし、陳寿が『三国志』執筆のために使用した『呉書』は孫登の側近である諸葛恪が編纂を命じたものなので、孫登の悪口を書くはずありません。
しかし、孫登が即位すれば陸遜が憤死する「二宮事件」が起きることは無かったし、孫晧も皇帝ではなく呉の有能な家臣として力を発揮して、西晋(265年~316年)と戦っていたかもしれません。
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