三国志演義ファンであれば、関羽を打ち破ったのは呂蒙である事は常識でしょう。
そうであればこそ、怨霊になった関羽は呂蒙に憑りついて祟り殺すからです。しかし、よくよく考えると関羽を本当に追い込んで窮地に追い込んだのは情けなくも関羽に降伏し、魏のガッカリ君の異名を持つ于禁ではないかとkawausoは思うのです。
今回は三国志正史から、本当は関羽に致命傷を与えていたかも知れない于禁の強かな戦略について考えてみます。
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この記事の目次
于禁が降伏した時から関羽の歯車が狂い始めた
西暦219年、関羽は曹操が劉備討伐の為に漢中平陽関に向かった隙を突いて樊城に侵攻します。一方曹操は劉備に勝てずに引き上げ関羽の襲来を知ると、長安から曹仁に命令を出し関羽を迎撃させ援軍として于禁の七軍を派遣しました。しかし、その年の秋は長雨になり漢水が決壊、平地が水没します。舟を持たない于禁の軍勢は物資を流され、何とか丘の上に避難しますが、関羽はそれを舟で包囲したので観念した于禁は降伏しました。
曹操は予想外の関羽の優勢に狼狽えて遷都を考えたと同時に、最後まで降伏を拒否して死んだ龐徳に対し、キャリア三十年の于禁があっさりと降伏した事を問題視。「なんていうか、ガッカリ君ですね于禁には、それしかありません」などと巨人の原監督のような事を言い突き放す始末でした。
逆に関羽は絶好調、曹仁を樊城に包囲して勝利に手が届きそうになります。ところが本当は于禁とその軍勢を吸収した事で関羽の運命の歯車が大きく狂うのです。
于禁の軍勢を食わす為に士仁や麋芳とも険悪に
于禁の七軍の軍勢の数について細かい記述はありませんが、数万人はいたと思います。
人ばかりではなく馬も大量に確保していましたので関羽は于禁の軍勢を吸収し一気に膨れ上がる事になりました。ところが関羽がやっているのは包囲戦であり、着々と兵糧は減っていきます。大量の兵力があったところで籠城戦ではその優位を発揮する事は出来ません。
関羽としては、于禁の数万の軍勢を吸収した事で、兵糧は予定より大きく減る事になりスケジュールが狂う事になったのです。これは想定外の誤算でした。
ここで関羽が春秋戦国時代の白起のように魏兵を穴埋めして始末すれば兵糧リスクは無かったのでしょうが、関羽はそんな事はしませんでした。さすがは義将ですエライ!しかし、兵糧不足は深刻になる一方でした。そこで関羽は江陵と公安で留守番をしている士仁と麋芳に物資を送るように指示しますが、二人が供出した物資が少ない事で怒り、「帰還したらお仕置きだべ」と言い渡しています。
ばかりか関羽は、足りない兵糧を補おうと呉の物資輸送の関所である湘関に行き、強引に兵糧を奪い取ってしまいました。士仁と麋芳への叱責と湘関の略奪が示すのは関羽が予想以上に膨れ上がった于禁の兵を食わすのに苦慮している様子なのです。
呂蒙は麋芳と士仁を降伏させ関羽の息の根を止める
関羽は、士仁と麋芳に相当な激怒をしたのでしょう。懲罰を恐れた二人は商人に成り済ましてやってきた呂蒙に対してあっさりと降伏してしまいます。もしかすると、かなりの量の兵糧を樊城を包囲する関羽に供出して、籠城に自信が持てなかったかも知れません。
逆に考えてみれば、于禁が降伏せずに、全てが皆殺しにされてしまったり漢水に全軍が飲み込まれて消えてしまっていたら、関羽はスケジュール通りに樊城を包囲できたし麋芳や士仁に無茶な量の兵糧を送れと命令を出す必要もなかったのです。
そう考えると、戦わずして関羽を兵糧不足にした于禁は、当人が意図しようがしまいが恐るべき戦略家として関羽にジワジワとダメージを与えた事になります。この部分では最後まで降伏を拒否して斬首された龐徳よりも、はるかに善戦したと言えるのではないでしょうか?
于禁は全て計算づくだったのか?
もしかすると于禁は、全て計算づくだったのかも知れません。曹仁は粘り強く籠城するでしょうから、自分は敢えて降伏して捕虜になり、関羽軍の兵糧を食いつぶそうと決意して屈辱に耐えても勝利を掴もうとしたのではないでしょうか?
曹操は于禁が降伏したと聞いた時に「ガッカリ君だよ」と失望しましたが于禁の一族を処罰したわけでもありませんし、もしかして途中で于禁の真意に気が付いて、あいつ中々やるなと見方を改めたかも知れません。ただ、残念な事に曹操は関羽の刑死と前後して病死しているので、本当の所が分からないというのが正直な所ですが、結果として関羽は敗れ、呂蒙は呉軍により解放されたわけであり、それには于禁の貢献が少なくないと思えます。
三国志ライターkawausoの独り言
余談ながら、曹操は官渡の戦いで袁紹を撃破した後に、七万人の袁紹の兵を斬首している事が武帝紀に引く献帝起居注に出てきます。本伝では袁紹の軍兵を捕虜にしたとある事から捕虜にしてから斬首したと捉える事も出来ます。
普通に考えると、確かに惨い話ではありますが、曹操は当時、兵糧不足に悩んでいたので食わせていけない兵力を生かして開放すれば、袁紹の下に戻るか、領内で賊になる事を危惧したのかも知れません。やむなく殺したというのが実態でしょう。
これを考えると于禁が敢えて投降して、関羽軍の兵糧を食いつぶすというプランも全く考えられなくもないのではないでしょうか?
参考文献:正史三国志
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