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関羽を倒したのは呂蒙ではなく于禁だった!関羽に致命傷を与えた于禁の戦略とは?

2019年11月30日


 

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于禁

 

三国志演義ファンであれば、関羽(かんう)を打ち破ったのは呂蒙(りょもう)である事は常識でしょう。

 

関羽の呪いで殺される呂蒙

 

そうであればこそ、怨霊(おんりょう)になった関羽は呂蒙に憑りついて(たた)り殺すからです。しかし、よくよく考えると関羽を本当に追い込んで窮地(きゅうち)に追い込んだのは情けなくも関羽に降伏し、魏のガッカリ君の異名を持つ于禁ではないかとkawausoは思うのです。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

今回は三国志正史から、本当は関羽に致命傷(ちめいしょう)を与えていたかも知れない于禁の(したた)かな戦略について考えてみます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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于禁が降伏した時から関羽の歯車が狂い始めた

碁をうつ関羽

 

西暦219年、関羽は曹操が劉備(りゅうび)討伐の為に漢中平陽関(へいようかん)に向かった(すき)を突いて樊城(はんじょう)に侵攻します。一方曹操は劉備に勝てずに引き上げ関羽の襲来を知ると、長安から曹仁(そうじん)に命令を出し関羽を迎撃させ援軍として于禁の七軍を派遣しました。しかし、その年の秋は長雨になり漢水が決壊、平地が水没します。舟を持たない于禁の軍勢は物資を流され、何とか丘の上に避難しますが、関羽はそれを舟で包囲したので観念した于禁は降伏しました。

曹操、ホウ徳、于禁

 

曹操は予想外の関羽の優勢に狼狽(うろた)えて遷都を考えたと同時に、最後まで降伏を拒否して死んだ龐徳に対し、キャリア三十年の于禁があっさりと降伏した事を問題視。「なんていうか、ガッカリ君ですね于禁には、それしかありません」などと巨人の原監督のような事を言い突き放す始末でした。

曹仁

 

逆に関羽は絶好調、曹仁を樊城に包囲して勝利に手が届きそうになります。ところが本当は于禁とその軍勢を吸収した事で関羽の運命の歯車が大きく狂うのです。

 

于禁の軍勢を食わす為に士仁や麋芳とも険悪に

激怒する関羽

 

于禁の七軍の軍勢の数について細かい記述はありませんが、数万人はいたと思います。

人ばかりではなく馬も大量に確保していましたので関羽は于禁の軍勢を吸収し一気に(ふく)れ上がる事になりました。ところが関羽がやっているのは包囲戦であり、着々と兵糧は減っていきます。大量の兵力があったところで籠城戦ではその優位を発揮する事は出来ません。

 

そろばんを叩く関羽

 

関羽としては、于禁の数万の軍勢を吸収した事で、兵糧は予定より大きく減る事になりスケジュールが狂う事になったのです。これは想定外の誤算でした。

 

春秋戦国時代の白起、デビュー戦から大殺戮

 

ここで関羽が春秋戦国時代の白起のように魏兵を穴埋めして始末すれば兵糧リスクは無かったのでしょうが、関羽はそんな事はしませんでした。さすがは義将ですエライ!しかし、兵糧不足は深刻になる一方でした。そこで関羽は江陵(こうりょう)公安(こうあん)で留守番をしている士仁(しじん)麋芳(びほう)に物資を送るように指示しますが、二人が供出した物資が少ない事で怒り、「帰還したらお仕置(しお)きだべ」と言い渡しています。

関羽の救援要請をシカトする劉封

 

ばかりか関羽は、足りない兵糧を補おうと呉の物資輸送の関所である湘関(しょうかん)に行き、強引に兵糧を奪い取ってしまいました。士仁と麋芳への叱責(しっせき)と湘関の略奪(りゃくだつ)が示すのは関羽が予想以上に膨れ上がった于禁の兵を食わすのに苦慮している様子なのです。

 

樊城の戦い特集

 

呂蒙は麋芳と士仁を降伏させ関羽の息の根を止める

呂蒙

 

関羽は、士仁と麋芳に相当な激怒をしたのでしょう。懲罰を恐れた二人は商人に成り済ましてやってきた呂蒙に対してあっさりと降伏してしまいます。もしかすると、かなりの量の兵糧を樊城を包囲する関羽に供出して、籠城に自信が持てなかったかも知れません。

于禁と兵士

 

逆に考えてみれば、于禁が降伏せずに、全てが皆殺しにされてしまったり漢水に全軍が飲み込まれて消えてしまっていたら、関羽はスケジュール通りに樊城を包囲できたし麋芳や士仁に無茶な量の兵糧を送れと命令を出す必要もなかったのです。

ホウ徳(龐徳)

 

そう考えると、戦わずして関羽を兵糧不足にした于禁は、当人が意図しようがしまいが恐るべき戦略家として関羽にジワジワとダメージを与えた事になります。この部分では最後まで降伏を拒否して斬首された龐徳よりも、はるかに善戦したと言えるのではないでしょうか?

 

于禁は全て計算づくだったのか?

于禁

 

もしかすると于禁は、全て計算づくだったのかも知れません。曹仁は(ねば)り強く籠城するでしょうから、自分は敢えて降伏して捕虜になり、関羽軍の兵糧を食いつぶそうと決意して屈辱に耐えても勝利を(つか)もうとしたのではないでしょうか?

于禁、曹操、青州兵

 

曹操は于禁が降伏したと聞いた時に「ガッカリ君だよ」と失望しましたが于禁の一族を処罰したわけでもありませんし、もしかして途中で于禁の真意に気が付いて、あいつ中々やるなと見方を改めたかも知れません。ただ、残念な事に曹操は関羽の刑死と前後して病死しているので、本当の所が分からないというのが正直な所ですが、結果として関羽は敗れ、呂蒙は呉軍により解放されたわけであり、それには于禁の貢献が少なくないと思えます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

余談ながら、曹操は官渡(かんと)の戦いで袁紹を撃破した後に、七万人の袁紹の兵を斬首している事が武帝紀に引く献帝起居注(けんていききょちゅう)に出てきます。本伝では袁紹の軍兵を捕虜にしたとある事から捕虜にしてから斬首したと捉える事も出来ます。

 

疫病が蔓延した村と民人

 

普通に考えると、確かに(むご)い話ではありますが、曹操は当時、兵糧不足に悩んでいたので食わせていけない兵力を生かして開放すれば、袁紹の下に戻るか、領内で賊になる事を危惧したのかも知れません。やむなく殺したというのが実態でしょう。

これを考えると于禁が敢えて投降して、関羽軍の兵糧を食いつぶすというプランも全く考えられなくもないのではないでしょうか?

 

参考文献:正史三国志

 

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英雄の死因

 

 

 

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