三国志に登場する人物の中で、もっとも憎めないキャラクターといえば張飛なのではないでしょうか。
張飛は呂布とも渡り合うほどの武力を持ちながら、軽率な行動で劉備軍全体を危機に陥れてしまうこともありました。まさに豪傑を絵にかいたような張飛ですが、彼はどのような死を迎えたのでしょうか。張飛の最期について紹介します。
「張飛 死因」
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桃園の誓い
劉備、関羽、張飛が黄巾賊の討伐軍に加わるために挙兵を決意し、志を誓った有名なシーンが『三国志演義』にあります。それが「桃園の誓い」です。
「生まれた日は別々だけれども、義兄弟として契りを交わし国と民のために生きていく。同年、同月、同日に生まれることはできなかったけど、同年、同月、同日に死ぬことを願う義に背くことなく我らは生きていく」この誓いを信条にして彼らは戦いつづけていったのです。
張飛の欠点、お酒とパワハラ
戦場となると敵は張飛に触れることさえかないません。『三国志演義』では、新野の太守をしていた劉備が、曹操に攻められ追い詰められた時に、たった一人で長坂橋に立って曹操軍を追い返しています。そんな張飛がどうにも勝てなかったのがお酒です。その典型だったのが劉備の徐州の太守だった時代です。
袁術と戦うために自ら出兵することになった劉備。心配ながらも下邳の留守を張飛に任せます。そのとき劉備は、「酒を飲まない、腹を立てない、兵士に暴力をふるわない」という約束を張飛に言いつけて徐州を後にします。
しかし、禁酒の約束を破り、さらにはそれをとがめた部下の曹豹に怒って、棒叩きにしてしまいます。その結果、曹豹は呂布に内通し、下邳は呂布に奪われてしまったのでした。酒癖の悪さと自分より身分が下の人間へのパワハラ。どうにも治らない張飛の欠点でした。
関羽の死で己を見失う張飛
あちこちの君主の居候をしていた長い年月を経て、劉備はようやく蜀という自分の国を持ちます。しかし、218年に漢中王に即位をしてつかの間、翌年に荊州を守っていた関羽が、孫権軍の呂蒙や陸遜の攻撃を受け、味方の裏切りもあって打ち取られてしまいます。
劉備と張飛は義兄弟の死に怒り悲しみ、すぐにでもかたき討ちの兵を出そうとしますが、みんなに止められてしぶしぶ諦めます。
寝台で命を落とした張飛
221年に劉備は蜀の皇帝に即位。長年苦労を共にしてきた張飛も、司隷校尉と車騎将軍という高い官位を与えられます。そして、念願の呉討伐軍が編成。張飛は復讐心にいきりたちます。
江州に向かうための準備を進める張飛。ここで、あるエピソードが『三国志演義』に記されています。張飛は部下の張達と范彊に三日以内に白装束を用意しろと無茶な命令を下します。2人はもう少し日にちが欲しいと訴えます。ところがお酒が入っていた張飛は棒で殴りつけたうえで、間に合わなかったら斬ると脅します。
常日頃から張飛の暴力に恨みを募らせていた張達と范彊は、自分たちの身を守るために決意します。寝室に忍び込むと、ぐっすり寝ている張飛の首を打ち取り、2人はそのまま首を持って呉に亡命したのでした。数えきれないほどの敵を打ち取ってきた張飛ですが、なんとも切ない死を迎えたのでした。
報告を受け取った劉備の反応
劉備のもとに、張飛の軍から報告が届きます。しかし、劉備はその内容を知る前に、
「ああ、張飛が死んだ」と言ったとされています。張飛は何かと部下へのあたりが厳しく、時には殺してしまうこともあったため、彼らから恨みを買っていることを劉備は前々から心配していたのですね。こうして劉備は2人の義弟を失ったのでした。
そののち呉へのかたき討ちに向かった劉備も、大敗を喫し、気力を失って白帝城で崩御します。
三国志ライターたまっこの独り言
裏表のない性格の張飛は、思ったことや感じたことをそのまま言動に出してしまう武将。思いがけない最期ではありますが、ある意味本能のままに生きた張飛らしいのかもしれません。個人的には、戦場で敵将に打ち取られるよりも、張飛らしい終わり方のように思えます。
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