報われなかった稀代の軍師陳宮をわかりやすく紹介

2020年4月9日


 

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孔明 郭嘉 周瑜

 

三国志の中で大きくなった国には必ず優れた軍師がいました。()司馬懿(しばい)荀彧(じゅんいく)(しょく)諸葛亮(しょかつりょう)龐統(ほうとう)()周瑜(しゅうゆ)陸遜(りくそん)

 

陳宮

 

しかし、その国が大きくなる前に滅んでしまったために、あまり評価されていない有能な軍師もいます。その代表が陳宮(ちんきゅう)です。天下無双の呂布(りょふ)を支えた陳宮は、上に挙げた一流の軍師に仲間入りしてもおかしくない人物でした。そんな天才軍師陳宮とはどのような人生を生きたのでしょうか。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹操の軍師だった陳宮

黄巾賊を率いて暴れまわる何儀(かぎ)

 

陳宮は字を公台といい、東郡の武陽県に生まれました。黄巾(こうきん)の乱が起きると、陳宮は軍師として曹操(そうそう)を支えていきます。正史の三国志で陳宮は、黄巾賊に敗れて戦死した劉岱(りゅうたい)に代わって、曹操が兗州の州牧(しゅうぼく)の地位につくための根回しをしています。

 

袁家をイジメる董卓

 

ところが『三国志演義』の陳宮はすぐに曹操の元を離れています。董卓(とうたく)の追ってから逃れていた2人は、呂伯奢(りょはくしゃ)にかくまってもらいます。しかし、呂伯奢は酒を買ってくるといって外出したままなかなか帰ってきません。

 

曹操

 

不信に思った曹操と陳宮が家の人たちの会話に聞き耳を立てると、

「早く殺せ」

という不穏な言葉が聞こえてきました。呂伯奢に騙されたと思った2人はあっという間に家の人たちを殺したのですが、実は彼らはもてなしのためのイノシシをさばこうとしていたことがわかります。

 

怒る曹操

 

まずいことをしたとその場から逃げた曹操と陳宮でしたが、家に戻ってきた呂伯奢とばったり出くわします。なんとかごまかしてやりすごすと、忘れ物をしたからと陳宮に先に行くよう言うと曹操は来た道を引き返していきました。

 

処刑を下す曹操

 

しばらくして合流した曹操に何を忘れたのかと陳宮がたずねると、曹操はなんということもないように呂伯奢を殺してきたと答えたのでした。家族を殺された恨みで董卓に知らされては困るから殺してきたというのです。陳宮はただでさえ勘違いで家族を殺してしまったことに罪悪感を抱いていたのに、自分のために手段を選ばない曹操に得体のしれない恐怖を感じます。陳宮はここで曹操を見限り、行動を別にしたのでした。

 

天才軍師と天下無双

怒る陳宮

 

この三国志演義ほど劇的なできごとがあったわけではないようですが、陳宮が曹操を見限ったのは事実のようです。正史の三国志では曹操に兗州(えんしゅう)の留守を任されると、張邈(ちょうばく)とともに反乱を起こします。

 

曹操を裏切る陳宮

 

陳宮の働きかけによって、兗州は荀彧(じゅんいく)程昱(ていいく)などを除いたほとんどの太守や県令が反乱に加わりました。そして呂布を兗州牧に迎え入れたのでした。このときから陳宮は呂布の片腕となったのでした。

 

軍師の枠に収まらなかった悲しい才能

呂布に従う陳宮

 

曹操のときも呂布のときも、陳宮は彼らのために勢力の地盤固めをするために自ら精力的に動き回り働きかけをしています。陳宮の政治家としての能力の高さも表しています。

 

軍師というと一歩後ろに下がったところから君主に助言をするイメージがありますが、陳宮の場合は自分の能力を積極的に発揮して自軍を勝利に導こうとするタイプだったようです。陳宮が曹操ではなく呂布を選んだのも、もしかして自分の頭脳なら軍師としてコントロールする自信があったのかもしれません。

 

赤兎馬にまたがる呂布

 

ところが呂布も歴戦を潜り抜けてきた自負があります。陳宮の考えた策を採用しないことも少なくありませんでした。2人の関係はそれほど良好だったわけではなかったようです。それがはっきり表れたのが郝萌(かくぼう)の反乱のときでした。

 

郝萌(かくぼう)と曹性をボコボコにする高順

 

この反乱は高順(こうじゅん)によって鎮圧されますが、黒幕は陳宮だったようです。処罰したときの影響を考えてか呂布は不問に付しますが、陳宮としては自分が思うように動かせる君主ではないと判断した結果なのかもしれません。

 

曹操から水攻めを受ける呂布

 

結局、曹操に下邳(かひ)の城に追い込まれたときも、陳宮は挟み撃ちで一発逆転する「掎角の勢(きかくのせい)」という計略を考えますが、呂布は妻の(げん)氏に泣きつかれてこの策をスルー。曹操の大軍に包囲されて、呂布軍は逃亡兵が相次ぎます。

 

呂布を裏切る魏続(ぎぞく)と宋憲(そうけん)

 

どうすることもできないまま時間が流れるうちに、候成(こうせい)魏続(ぎぞく)宋憲(そうこう)たちが曹操軍に投降することを決意。彼らは軍師の陳宮を捕縛して曹操に下ったのでした。

 

呂布のラストウォー 処刑される呂布

 

そして呂布もそのすぐ後に降服します。曹操は縄に縛られた陳宮にこう言います。

 

「自分の才能にあれほど自信を持っていた君が、どうしてそんな格好をしているのか」

 

「それはこの男が私の助言を聞かなかったからだ。私の策を聞き入れていれば、こんな状態にはなっていない」

 

曹操

 

曹操は陳宮の才能を惜しんで、自分の配下としてまた働くようすすめますが、陳宮はこれを拒否して、望み通り処刑されたのでした。三国志の名だたる他の軍師にも負けない才能を持ちながら、自分の君主を勝利に導けなかった陳宮。それは自分には国を動かすだけの力を持っているという自信があったために、軍師の枠を越えた働きをしようとしてしまったことが彼の欠点だったのかもしれません。

 

三国志ライターたまっこの独り言

たまっこ f

 

陳宮は君主にも軍師にもなりきれなかった天才だと言えます。諸葛亮や司馬懿、周瑜ほどの活躍ができなかったのは、軍師の立場を越えたところでも自分の能力を発揮しようとしたからではと私は思ってしまいます。

 

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呂布

 

 

 

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たまっこ

KOEIのゲームから歴史に興味を持ち始め、 吉川英治の「黒田如水」を読んで以来、歴史にどっぷり。 最近はローマ史がお気に入り。 外国からの観光客に日本の歴史を伝えるお仕事も そのうちできたらなぁ、と思ってます。 好きな歴史人物: ユリウス・カエサル、竹中半兵衛、葛飾北斎、エイブラハム・リンカーンなど 何か一言: 歴史には、 自分には到底できない生き方をした人がゴロゴロいて、 飽くことがありません。

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