呉(222年~280年)の嘉禾3年(234年)に蜀(221年~263年)の丞相の諸葛亮が魏(220年~265年)に対して5度目の北伐を開始します。
この時、呉の陸遜も一緒に魏を攻めました。しかし諸葛亮は遠征中に亡くなり呉も大した戦果を挙げることが出来なかったので、最後は撤退となります。だが、この撤退の時に陸遜は「ある事」を行って裴松之から非難を受けます。いったい彼は何をしたのでしょうか?
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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蜀と呉の共同出陣と撤退
前述したように呉は嘉禾3年(234年)に蜀と共同で魏に対して出兵を行います。孫権は合肥へ、陸遜と諸葛瑾は襄陽を攻めました。合肥を攻めるのはこれで4回目です。
ところが合肥では魏の満寵・張潁の奮戦により呉は苦戦強いられて、呉は孫権の甥の孫泰を失います。
結局、曹叡が親征する報告がきたので孫権は撤退を決意しました。一方、陸遜は信頼している韓扁を派遣して戦況を報告しようとしますが、韓扁は帰る途中で魏に捕まります。敵に情報が漏れたので諸葛瑾は陸遜に急いで撤退することを伝えました。
しかし陸遜は何を考えているのか、畑作業・囲碁・弓をしてのんびりしています。まるで撤退する気無し。ビビッてしまい、陸遜も諦めムード全開になってしまったのでしょうか?
その報告を聞いても諸葛瑾は、「陸遜殿は知略が多いから、何か考えがあるのだろう」と心配しませんでした。
とは言っても、やっぱり理由は聞きたいのか諸葛瑾は直接、陸遜に面会に行っています。すると陸遜は、
「魏は孫権様が帰り着いたことを知れば、我々に攻撃を集中してくる。それに今は要害の地は固められて退却は困難であり、兵士の心は動揺するだろう。ここは私は落ち着いた様子を見せて兵士を安心させて、巧妙な策を立てて脱出させるのが良いだろう」とコメント。
リーダーとして落ち着いた態度でした。納得した諸葛瑾はその後、陸遜と作戦を練ります。まず襄陽城を攻めることにしました。襄陽城の敵は陸遜を恐れていたので、あっという間に蹴散らされます。そのスキに乗じて、呉軍は諸葛瑾が用意した船に乗って逃げました。
呉の略奪と殺戮 そして裴松之の批判
さて、陸遜は帰る途中に白囲に軍をとめると表面上は、「狩猟」と言って将軍の周峻・張梁(黄巾軍の張梁とは別人)を派遣しました。モンハンみたいに軽めに言ってますけど、これは明らかに人間狩りです。案の徐、周峻・張梁は近くの江夏の民を殺したり、捕まえたりします。まるで『北斗の拳』の世界です。呉軍は『北斗の拳』のザコキャラでした。
陸遜は何を考えているのか、生き残った人々には手厚い保護を加えるという矛盾をしています。正史『三国志』に注を付けた裴松之は陸遜の矛盾した行動に激怒!
「1000人捕虜にした程度で魏に何の損害が出るんだ?何の罪もない民を殺害しただけだろう。諸葛亮の無意味な軍事行動と何の違いがあるんだ?これでは陸遜の家が3代も続かない理由が分かった気がする」裴松之は少し感情的になっている気もします。たまに、彼の注にはこんなものがあるのですけど・・・・・・
裴松之は結構キツメに言ってますけど、これは当時の目線で考えたら「普通」です。言葉は悪いですけど、当時の人間は消耗品でした。例えるのなら100円均一の商品と思って頂いても構いません。
戦争・農業・子孫繁栄・・・・・・そういったものに人間は必要でした。人道的には誤った行動ですけど、当時の目線で考えたら当たり前なのです。
三国志ライター 晃の独り言 歴史家って面倒くさい・・・・・・
以上が陸遜が残した唯一の汚名に関する話でした。しかしながら筆者は1つの疑問があります。実は裴松之が生きていた劉宋(420~479年)は三国時代(220年~280年)以上に残酷な時代でした。部下・肉親同士の殺し合いは当たり前、略奪・殺戮日常茶飯事、民はそれで苦しんでいました。裴松之は従軍経験もありますので、リアル・タイムでそういう光景を見ています。
そんな人が陸遜を批判出来るのでしょうか?おそらく、裴松之は陸遜のネタを使って自分の仕えている政権を批判しているのでしょう。中国の歴史家は昔の王朝のネタに、現政権をオブラートに批判するクセがあります。
裴松之もおそらく、そのような人物だったのではないでしょうか?歴史家って面倒くさいですね・・・・・・
※参考文献
・袴田郁一「裴松之『三国志』の史料批判と劉宋貴族社会」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』64 2019)
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