戦国の雄、甲斐の虎武田信玄、戦国最強とも謳われた赤備えの武田軍団を率い、織田信長さえ恐れたと言われる戦国屈指の名将です。同時に彼は、人は堀、人は石垣、人は城の格言で知られる立派な人格者としても著名で、サラリーマンの方には信玄の言葉を座右の銘にしている方も多くおられるでしょう。しかし残念!領民にとっての武田信玄は、度重なる大増税で領民を搾取した血も涙もない領主だったようです。
この記事の目次
信長の野望でお馴染み、貧しい甲斐
誤解のないように最初に書いておきますが、kawausoは武田信玄が領民から搾取した税金で贅沢三昧をした暴君だったと書きたいのではありません。ただ、信玄が統治した甲斐は笛吹川と釜無川という二本の暴れ川の度重なる氾濫で、凶作が到来する上に、元々土地が痩せていて豊かさとは無縁の土地でした。これは信長の野望をプレイした事があるゲーマーの方ならすんなり理解できると思います。いかに甲斐国の土地が痩せていて収穫量が低いか、そして隣国の信濃がいかに石高が高いか・・・
何を言いたいのかと言えば、本来ならとても戦国に名を刻めない弱小国の大名が、どうして、何度も映画になりドラマになり小説になるような最強軍団を保持できたのかという根本的な疑問です。金がなる樹があるじゃなし、最強騎馬軍団は領民から搾り取られた税金により維持されていたのです。
血も涙もない棟別役の大増税
戦国時代、多くの大名の収入源はやはり土地からあがる農作物、つまりは米でした。しかし、農作物というのは、大雨、干ばつ、病害虫、台風などの影響を受けて毎年の収穫量が変化します。豊作なら年貢を取るのは従来通りでも、飢饉になれば年貢を減免しないとなりませんでした。しかし、甲斐のような災害の多い国では、それでは軍事力を維持できませんので、信玄は農作物ではなく固定資産税に税収の主力を置くようになります。
信玄が目をつけたのは、棟別役と言い本家の住宅に春と秋に百文ずつ年二百文を課税するものでした。戦国時代の一文は諸説ありますが、現在価格の50円なので、二百文なら1万円という事になります。棟別銭は甲斐以外にもありましたが、それらは一年間で五十文から百文であり、甲斐の1/4から1/2でしかありませんでした。信玄が領民に課した棟別銭は、他国から比較しても重税だったのです。
しかも、税金は信玄が勢力を拡大して軍団を大きくするに従い、増々増えていきます。税収不足を補う為に、信玄は新築の家屋や片屋根の家や人が住まない空家まで棟別銭を課税し、当初は五十文、信玄死後は百文に増税しました。さらに信玄は1562年には甲斐国鮎沢郷に対し、棟別銭を三十文前倒しで催促、ただでさえ貧しい甲斐の領民は悲惨な境遇に追い込まれるのです。
滞納を許さず、連帯責任でビシビシ取り立て
棟別銭は固定資産税ですから、農作物の出来不出来に関係なく、毎年徴収されます。その為中には、棟別銭が支払えずに滞納する農民も出てきます。本来なら支払い能力がない領民からは税は免除されるべきですが、信玄はそれを許しませんでした。棟別銭の課税単位は村単位であり、一つの家が支払えないとその負担は村に背負わされ、家の働き手が死んでも、残った家族は本家に繰り入れられて、本家が税を背負います。
棟別役はよほどの事がない限り、免除はなく、死者や逃亡者が大勢でるか、棟別銭が基準の倍を超えるか、水害や家屋流出で死人が出た家が十軒以上になるかというレベルです。この悪税の為に、ただでさえ逃亡者が多い甲斐の農村は、信玄の代にはさらに逃亡者が続出したという話です。しかし、村から逃亡すれば棟別銭から逃げられるかといえば、そうでもありませんでした。有名な甲陽軍鑑に記載された分国法、領国五十七カ条法度には、逃亡者に対する文言が残っています。
自身や家屋を捨て、あるいは売却して領国内を流れ歩く者に対してはどこまでも追い駆けて棟別銭を徴収せよ、ただし本人が一文無しなら家を所有するものから徴収する事。
領国から逃げださない限り、農民は重税から逃げられなかったのです。
未亡人、坊主、非正規雇用者にまで税金を掛ける信玄
信玄の増税は、棟別銭に限りません、例えば信玄は領内で喧嘩沙汰を起こした罪人に過料銭を科していましたが、意味不明な事にこれを喧嘩沙汰を起こしていない全領民に課税しました。さらには地下衆と呼ばれる決まった主を持たない非正規雇用者にも、この過料銭を掛けました。さらに、信玄の生涯最後となる西上作戦では、さらに後家役という未亡人に掛ける税金や、出家した僧が妻を娶った際の妻帯役など、なりふり構わない課税をしています。信玄の死後、この増税はさらに深刻になり、重罪でも金を払えば許され、微罪でも税金を払えない者は見せしめで極刑にされるなど末期的な状況に陥ったようです。
信長公記によると、1582年2月に織田軍が信濃に侵攻すると、近隣の住民は自分の家に火を放ち、どうか織田家の分国にして欲しいと頼み込んだと書かれています、織田方の史料なので信長を持ち上げているとは思いますが、この増税を見ると無理もないと考えてしまいますね。
増税!増税!それでも信玄が領民に称えられる理由は
ここまでの増税が行われれば、農民反乱で信玄は国を追い出されていてもおかしくありません。しかし、そうはならなかったのは信玄自身は質素倹約に努め、また暴れ川を治める為に、治世の三十年間を大規模な治水工事のような公共投資に費やした為でしょう。それに強くなければ、敵国の軍馬に踏みにじられ、女房子供は奴隷にされる戦国の非情の中では、いかに厳しい生活でも、歯を食いしばって絶えないといけませんでした。
実は、棟別銭の増税は信玄のみならず、父の信虎の時代大永二年(1522年)正月にも行われています。信虎の棟別役は徹底していて、その課税は武田家の直轄地ばかりか、家臣の領地にまで及び、それまで棟別銭を免除されていた寺社にまで課税しました。この頃も、信虎は頻繁に合戦を繰り返しており、軍資金が不足したのです。つまり、甲斐には度重なる増税の歴史があり、次第に増税に慣れていったというのも理由にはあるのかも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
弱ければ蹂躙される戦国時代において、甲斐は自然環境にも土地の肥沃さにも恵まれていませんでした。甲斐といえば甲州金で有名ですが、それだけでは膨張する軍費や、土木工事の費用を賄えなかったようです。もし、信玄が甲斐ではなく尾張に生まれていれば、領民に、ここまで課税する事もなかったでしょう。生まれ落ちた土地のハンディを克服する為、弱肉強食の戦国時代で生き残る為、信玄は情け容赦なく課税し最強軍団を組織し、武田の赤備えは領民の血の滲む努力で赤く映えたのです。
参考文献:桶狭間は経済戦争だった 戦国史の謎は「経済」で解ける
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