中平6年(189年)後漢(25年~220年)第12第皇帝霊帝はこの世を去りました。その後、外戚(=皇帝の一族)である何進と宦官の間で、激しい権力闘争が起きます。さて、今回は宦官と権力闘争を行った何進について正史『三国志』をもとに解説します。
「何進 霊帝」
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肉屋から大出世する何進
何進は荊州南陽郡出身の人です。父の何真は肉屋を営んでいました。今では信じられないのですが、肉屋は嫌な目で見られる職業でした。おそらく血で汚れたりするので、そういう目線で見られたのでしょう。
しかし何進の家は肉屋で成功を収めたらしく割と裕福でした。そこで何進は、同郷の宦官である郭勝に賄賂を渡し、自分の腹違いの妹を後宮に入れることにします。この腹違いの妹こそ、後に霊帝の皇后になる何氏でした。
何氏は身長163センチもあり、当時では大柄な人物です。性格は気が強く、後宮の人々は彼女を恐れていました。何氏は霊帝との間に劉弁(後の後漢第13第皇帝少帝)を生むと、光和3年(180年)に皇后になります。以降は何皇后と記述します。
兄の何進は妹のおかげで大出世です。郎中、虎賁中郎将、侍中、将作大匠(建設大臣)、河南尹(首都長官)になりました。また、中平元年(184年)の黄巾の乱では大将軍に任命されて全軍総司令官になります。もちろん本人は戦の経験はゼロなので、戦ったのは皇甫嵩、朱儁、盧植などの部下です。この時、何進の弟の何苗も車騎将軍になりました。
西園八校尉の創設する霊帝
中平5年(188年)に霊帝は首都防衛のために「西園八校尉」を創設。この時に任命された8人の中に中軍校尉の袁紹、典軍校尉の曹操がいました。また、あまり知られていませんけど劉備もこの時、洛陽で働いていました。だから、劉備は曹操や袁紹と面識がこの時点で面識があったと推測されています。
騫碩との政治闘争
脱線したので話を戻します。この当時、八校尉を統括していたのは宦官の上軍校尉の騫碩です。小説『三国志演義』やマンガの『蒼天航路』では十常侍の1人として有名ですが、正史では入っていません。この騫碩と何進が対立しました。
霊帝は生前、劉弁が頼りないのを見て皇太子にすることをためらいます。後継ぎにしたかったのは側室の王美人との間に出来た劉協(後の後漢第14第皇帝献帝)です。だが、何進が権力を握っていたのでどうすることも出来ません。
中平6年(189年)に病気になった霊帝は騫碩を呼びました。やはり困った時に皇帝が頼りにするのは宦官です。霊帝は劉協を頼むことを伝えて死去します。そこから騫碩と何進の争いが始まります。騫碩は普段から何進を嫌っていたので、まさにチャンス到来でした。何進を殺して劉協を皇帝に即位させようと、画策します。ところが、この計画は内通者がいたので、あっさりと何進に漏れてしまいます。
怒った何進は袁紹と手を組むことにしました。袁紹は中国でも名門中の名門である袁家の出身。彼も宦官打倒を企てていたのです。2人は意見が一致したので、宦官打倒を企画します。一方、窮地に追い込まれた騫碩は同僚の趙忠に助けを求める手紙を送ります。しかし、何進と同郷の宦官である郭勝は自分たちに危害が及ぶのはご免である、と考えて手紙を何進に送りつけました。
証拠をつかんだ何進は、あっさりと騫碩を逮捕。即刻処刑しました。こうして騫碩との政治闘争は終了。
三国志ライター 晃の独り言
この後、勢いに乗じて宦官を撲滅しようと袁紹が尻を叩いたのですが、妹の何皇后(当時は太后)や弟の何苗がストップをかけたので、何進による宦官討伐は中止となりました。その後も袁紹が「やりましょう!」と言えば動くが、妹や弟が「待って」と止めれば、Uターン・・・・・・
何進は第三者の意見に動かされやすく、自分の意見が無かったのです。推測の域に過ぎないのですが騫碩との対立は政治的対立というよりも、感情的対立が要因がだった可能性が強いと筆者は考えています。
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※参考文献
・上谷浩一「劉備玄徳の生年時代―『三国志』研究ノート<1>-」(『東洋史訪』13 2007年)
・狩野直禎『三国時代の戦乱』(新人物往来社 1991年)
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