織田信長に仕えた黒人武士として記録に残る弥助。しかし、戦国時代には弥助以外にも活躍したアフリカ人がいました。今回は沖田畷の戦いで有馬晴信軍に参加し大砲を操作して手柄を立てたアフリカ人について紹介します。
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切支丹大名 有馬晴信に従ったカフル人
沖田畷の戦いは天正十二年(1584年)竜造寺隆信vs有馬晴信・島津家久の連合軍との間の戦いでした。元亀元年(1570年)竜造寺隆信は大友宗麟を今山の戦いで撃破、筑前・筑後・豊前を手に入れます。大友氏の没落は止まらず、天正六年には耳川の戦いで島津氏にも敗北して、九州の覇者の地位から脱落、九州の覇権は島津vs竜造寺の二強により争われました。
当初は竜造寺氏についていた有馬晴信は、九州の島津氏と結んで竜造寺に反旗を翻します。これに怒った竜造寺は、肥前島原に進軍して有馬・島津の連合軍と激突するのです。
沖田畷の戦いは、宣教師ルイス・フロイスも記録に残していました。有馬晴信が切支丹大名だった事もありますが、竜造寺隆信が切支丹嫌いで、もし竜造寺氏が勝利すると九州のカトリック勢力が全滅する危機だったからです。
この戦いで有馬の家老の船に乗り込み竜造寺の軍勢に艦砲射撃を加えたカフル人というのが、弥助以外のもう一人のアフリカ人なのです。
有明海から竜造寺軍を砲撃するカフル人
戦いの場所は沖田畷と言い、沼に挟まれた海岸沿いの隘路でした。有馬・島津連合軍は1万に満たないので、57000人とも呼ばれる竜造寺軍と正面から戦う事を避け退却を装いながら沖田畷に誘い込んだのです。
島津軍は沖田畷に到着すると、眉山から有明海のラインに、柵と大木戸を設置して、竜造寺軍の足止めにし、次に自軍をより少数に見せる為に前面の森岳城には有馬軍だけを籠城させ、残りの兵は山陰に伏せて少数に見せ掛けます。
竜造寺隆信は小高い丘から、森岳城の周囲を見ると、有馬の6000人程度しかいないので、一気に押しつぶそうと全軍に総攻撃を命じます。しかい竜造寺軍は狭い畷の中で、猛烈な島津軍の鉄砲掃射と盾に足を阻まれて進めなくなりました。
自軍の動きの鈍さに怒った竜造寺隆信が吉田清内を伝令を出すと、吉田は命を惜しまず戦えと必要以上に煽ったので、竜造寺軍は前進、そこに山陰に伏せていた島津兵が弓と鉄砲を射かけ、竜造寺軍は退却する兵と進む兵で大混乱、畷から溢れて深田に入り込み身動き取れずに討ち取られる兵が続出します。
同じ頃、有明海側を進む竜造寺隆信の二人の息子、江上家種と後藤家信の2千の軍勢を、天草伊豆守の船が襲います。船には、半筒砲が二門積み込まれていて、一人のアフリカのカフル人が弾を込め、インドのマラバル人が点火して発射。敵兵は密集していたので、弾は外れず全弾命中したようです。これにより、江上家種と後藤家信は前進を断念して敗走しました。
カフル人というのは、今のモザンビークの事であり弥助の出身地と一致します。この事から当時の日本には弥助のみならず、複数のアフリカ人がいて活躍していた事が推測できます。
大混戦で竜造寺隆信が討たれる
カフル人とマラバル人の艦砲射撃により、側面を進んでいた江上家種と後藤家信が敗走した事で、竜造寺隆信の本陣が丸見えになりこれを勝機と見て有馬軍が森岳城から飛び出し、伊集院忠棟の軍勢と共に突撃します。
午後二時、床几に腰かけていた隆信は、突撃してきた島津方の川上忠堅に見つかり、首を落とされてしまうのです。カフル人とマラバル人の艦砲射撃で竜造寺軍の側面が敗走し、丸見えになった本陣に有馬と島津の軍勢が突撃した事で勝敗が決したわけですから、二人の外国人の功績は決して小さくないと言えるでしょう。
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