黄忠といえば三国志では知らない人はいない、老いてますます盛んな老武将。三国志演義では五虎将軍の一人にも迎えられて、関羽との一騎打ちなど活躍が多い武将でもあります。しかしそんな黄忠は正史三国志ではどのように活躍したのでしょうか?
実はそれを見ていくといくつかのポイントで疑問点が浮き彫りになるのです。今回はその黄忠の疑問点を見ていきつつ、考察をしてみましょう。
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正史三国志での黄忠
黄忠は荊州南陽郡の人であり、劉表配下では長沙の守備に置かれていました。劉表の死後は韓玄の配下となり、そのまま長沙に置かれていましたが、劉備の荊州平定後劉備の配下に迎え入れられます。その後、益州攻略で三軍筆頭の活躍を見せました。
また定軍山での活躍は三国志演義でも有名であり、夏侯淵と同じく征西将軍となります。
しかし黄忠の活躍、というよりも記載は正史では少なく、これ以後は後将軍になるも亡くなり、息子がいたそうですがこちらも早逝して家は断絶したようなのが残念なところです。
三国志演義での黄忠
一方三国志演義での黄忠はかなり描写が増えています。特に弓の名手であることが描写されていて、長沙攻略時に関羽との一騎打ちや、弓の腕を見せつけて関羽を驚かせるなどの描写から黄忠のファンになった人も少なくはないのではないでしょうか。
またその最期も違いがあり、正史では夷陵の戦いよりも前に病死していますが、三国志演義では夷陵の戦いの戦いに参戦して奮戦虚しく敵の弓が原因で死亡するも、主君である劉備に看取られる最期となっています。
老武将
さて黄忠と言えば老将、老いてなお盛んの代名詞。このイメージは三国志演義でのもので、三国志演義では老将であることが強調されています。一つ目は関羽が五虎将軍に任命される時に「黄忠は老兵」と言って、その黄忠と自分を並べるのかと怒るんですね。
もう一つは黄忠の死因とも言える夷陵の戦いでの劉備の「新しい兵が育っているから老兵は不要」と言われて無茶をして戦死、というもの。しかしこれらはあくまで三国志演義のお話です。
三国志演義に生まれた違和感
因みに正史三国志でも前将軍任命時に関羽が老将であることを理由に怒って費詩に宥められていますが、そもそも正史三国志では黄忠と関羽の打ち合いはないので諸葛亮も「関羽は黄忠の働きを見ていないから」と言われるように納得もできる話になっています。
しかし三国志演義ではこの話の前に一騎打ちの話などが入ることもあり、関羽がいきなり「老兵と並べるな!」と激怒するのでちょっと話に違和感があるのは否めませんね。しかしこの「老兵」と言われる黄忠、実際にはいくつくらいなんでしょうか?
黄忠の年齢の不思議
三国志演義では黄忠は60を過ぎているとされていますが、正史では黄忠の正確な年齢が出てきません。ただし関羽が「老兵」と言った時を考えると、この時の関羽がだいたい50半ばを超えているので60は過ぎていると思われますが、それはそれで問題が出ます。
というのも「老兵」と言っている関羽もあまり年齢変わらないじゃないか!ということですね。そもそも中国において「老」という文字はあまり悪い意味ではなく、年上に使うニュアンスだったり、尊敬にも使ったりするからです。
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