広告

今川義元は徳川家康の大恩人?文武両道最強大名の真実

2020年5月7日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

今川義元

 

今から二十年位前までは、今川義元(いまがわよしもと)の評判はヒドイものでした。多分、志村けんのバカ殿と白塗りお歯黒のイメージが見事にかぶったのでしょうが、権威主義的で室町的価値観の体現者で、それが革新的な若い信長(のぶなが)に討たれるというスジがテンプレ化していたように感じます。しかし、実際の今川義元はバカ殿どころか徳川家康(とくがわいえやす)の大恩人で、文武両道の最強大名だったのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



後継者争い花蔵の乱を勝ち抜いた有能なサムライ

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

今川義元は、戦国大名の初代にカウントされる今川氏親(いまがわうじちか)の5男として誕生します。家督(かとく)は兄の今川氏輝(いまがわうじてる)が継いでいましたが、その氏輝が天文5年(1536年)に24歳の若さで死去し、子供もいないので、僧侶となっていた栴岳承芳(せんがくしょうほう)(義元)と兄の玄広恵探(げんこうけいたん)が家督を巡って争い、義元が争いを制しました。

西遊記巻物 書物_書類

 

ここで勝利した義元は、それまで敵対していた武田信虎と結び、領国経営に乗り出し、父氏親が制定した「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」に追加した「仮名目録追加」を制定して、領国内の法治主義を徹底します。同時に、自身の教育係でもあった太原雪斎を軍師として三河侵攻を本格化させ、後顧の憂いを断つべく、武田、北条と相甲駿三国同盟を結びました。このように今川義元は、大国をなんとなく継いだような白塗りのボンボンではないのです。

 

決して高い石高ではない今川領が繁栄した理由

安土城 織田信長が作らせた城

 

今川義元が領国とした駿河(するが)遠江(とおとうみ)三河(みかわ)の三カ国の石高は低いものでした。戦国時代は何と言っても石高の大きさがモノを言う時代です。それなのに石高の低い今川義元は、どうして東国でも最強を誇ったのでしょうか?

 

その大きな理由は、東海道の物流の掌握でした。戦国時代から東海道は物流が盛んで太平洋沿岸航路もかなり発達していましたのです。義元は、街道の宿や湊を掌握して関税をかけ整備し、商品流通を盛んにする事で財源を確保していたのです。

鉄甲船

 

それはかなりの繁栄ぶりで、今川氏の城下町の駿府(すんぷ)は多くの商人や職人が集まり、その人口は1万人を超えていたそうです。

 

はじめての戦国時代

 

商人の事は商人に商人頭の登用

寄親・寄子制を導入する今川義元

 

もうひとつ、今川義元は適材適所を重視していました。例えば駿府の商人についてはサムライが支配するのではなく豪商の友野二郎兵衛尉(とものじろうべえい)を商人頭に任命して、商人の事は商人に任せています。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

また、見付(みつけ)という土地の商人に対しては、年貢百貫を百五十貫にする事を条件に町の自治を認めていました。形式重視ではなく、万事能率が上がるように義元は工夫をしたのです。

 

灰吹き法を導入し金山収入も増加

まだ漢王朝で消耗しているの? お金と札

 

それから、金山の採掘にも今川義元は積極的に取り組んでいました。すでに、義元の父の今川氏親の時代から、領内には安倍金山、井川金山がありましたが、採掘量はそんなに多くありませんでした。

 

今川義元

 

ここに義元は、灰吹き法という新しい鉱山技術を導入した結果、金の採掘量が大きく向上します。灰吹き法とは、金銀を鉱石から一旦(なまり)に溶け込ませ、それから温度を上げて鉛と金銀を分離する方法で1533年に朝鮮半島から博多(はかた)に伝来しました。当時の最新技術を逸早く義元は領内で採用したのです。

 

その資金力で、京都から多数の公家や文化人を招く事が可能になり、和歌や連歌や蹴鞠のような雅な京文化が駿河に流れ込んできたのです。今川義元の白塗りもお歯黒も、今から見るとバカ殿ですが、当時は日本の最先端のファッションであり、それもこれも義元の領国経営の手腕があっての事なのです。

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)
-,