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朝倉義景はどんな人?チャンスを逃し続けた凡人大名

2020年5月17日


 

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朝倉義景

 

麒麟がくる18話はいよいよ新章に突入、明智荘から落ち延びた明智光秀の一族は帰蝶(きちょう)が手配した伊呂波太夫(いろはだゆう)のお陰で越前に落ち着きます。ここを支配していたのが戦国大名朝倉氏の11代当主の朝倉義景(あさくらよしかげ)でした。しかし、朝倉義景は京都に近く経済も発達した越前を領有しながら何度も訪れたチャンスを逃がし滅亡してしまうのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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朝倉孝景の子として越前に生まれる

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

朝倉義景は天文2年(1533年)越前の戦国大名朝倉孝景(あさくらたかかげ)の長男として生まれます。父孝景は、なかなか男子に恵まれず40歳で初めて挙げた男子という事で大事にされたようですが、義景の幼少期は記録に乏しく、逸話もほとんどありません。

 

天文17年3月、父の孝景が死去したので16歳で家督を継いで名前を長夜叉から朝倉延景(あさくらのぶかげ)と改め、京都に代替わりの使者を送っているのが御湯殿上日記の記述から分かります。

 

重臣朝倉宗滴の補佐で滑り出し上々

日本戦国時代の鎧(武士)

 

16歳の義景でしたが、政治と外交は70歳オーバーの名将、朝倉宗滴(あさくらそうてき)(教景)が一手に引き受けて特に心配ありませんでした。天文21年には、当時の室町幕府の将軍、足利義輝より義の一字を受けて名前を義景と改めています。さらに、義景は一等官である左衛門督(さえもんのかみ)の官途を与えられ、従来の朝倉家当主よりも優遇されていました。

京都御所

 

この理由は、名将だった父の孝景が室町幕府の御供衆(おともしゅう)相伴衆(しょうばんしゅう)に昇格して地位を高め、また義景の正室が当時将軍家を庇護していた細川晴元(ほそかわはるもと)の娘だった事も影響しているようです。義景も義輝に鷹を献上するなどして、個人的な交流も忘れていません。

 

麒麟がくる

 

戦国加賀一向一揆攻めで初陣

一向一揆(農民)

 

弘治(こうじ)元年(1555年)重臣の朝倉教景(あさくらのりかげ)が病死、22歳になっていた義景は自ら政務を執るようになります。永禄6年(1563年)義景は親戚筋の若狭武田氏を救援し、反乱を起こした粟屋勝久を攻撃して若狭出兵を繰り返します。

 

翌年の9月1日には、一門の朝倉景鏡と朝倉景隆を大将とした朝倉軍が仲が悪い加賀一向一揆に攻撃を仕掛けていて、9月12日には義景も珍しく出陣したりして、御幸塚や湊川に放火して一乗谷に帰還しています。この年義景は30歳、もしかするとこれが義景の初陣なのかも知れません。

 

足利義昭を保護する

逃げ回る足利義昭

 

永禄8年(1565年)5月19日、将軍足利義輝が三好義継らによって暗殺されます。世に言う、永禄(えいろく)の政変です。この時、義輝の叔父、大覚寺義俊(だいかくじぎしゅん)が上杉謙信に充てた書状によると、義輝の弟の覚慶(かくけい)(足利義昭)が近江に逃げて来た背景には義景の影響があり義景は義輝の遺臣、和田惟政(わだこれまさ)・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合っていたようです。

 

若狭武田家を頼っていた足利義昭ですが、武田氏が頼りにならないので、越前敦賀(えちぜんつるが)に移動します。義景は景鏡を使者として遣わしその来訪を歓迎しています。さて、足利義昭は、敵対する三好三人衆が足利義栄を将軍に祀り上げている関係から上洛を焦っていて、何とか朝倉義景の庇護で上洛したがっていました。

三好三人衆

 

そこで、加賀一向一揆と朝倉家との和睦を斡旋して問題を取り除こうと奮闘しなんとか加賀一向一揆との和解も成立させています。こういう所は義昭は非常に有能なんですが、それでも義景は上洛に動きません。焦れた足利義昭は、手数を増やそうと上杉謙信など諸大名にも上洛を促す書状を送るもののどこの大名も乗り気ではありませんでした。

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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