戦いには負けと勝ちがあります。ここで面白くベストなのは「勝つ」ことだけではないということです。
劉備は負け、撤退戦が多かったですがその度に立ち直って再び立ち上がった所に凄さがあると筆者は思いますね。そんな撤退戦について、今回は街亭の戦いの戦いでの趙雲、王平を例としつつ説明していきましょう。
この二人がどうして諸葛亮に評価されたか、それがこの街亭の戦いでの撤退に詰まっているのではないか?ということを解説していきたいと思います。
この記事の目次
街亭の戦い・概要
まずは軽く街亭の戦いについておさらいをしていきましょう。街亭の戦いとは228年3月に諸葛亮が行った、第一次北伐で起こった戦いのことです。この時に諸葛亮は蜀の要所であった街亭の守備を馬謖に命じました。
しかしこの際に馬謖は道筋を押さえず、山頂に陣を引いたことから張コウを始めとした魏軍に包囲され、水を絶たれたことから敗北してしまいます。この際に諸葛亮は馬謖を処断しますが、ここから生まれたのが「泣いて馬謖を斬る」という故事です。
馬謖の失態
ここで馬謖が山に登ってしまったことから街道の封鎖ができないまま、張コウに包囲され水路を抑えられて敗北します。馬謖と言われると、筆者は横山三国志のいきなり馬謖が「よし山に登ろう!」と元気に言い出すシーンが思い起こされますね。
このため馬謖は「生兵法」だとか「頭でっかちで実戦経験が乏しかった」など色々言われていますが、馬謖が何を考えていたかの考察についてはまた別の機会でやることにしましょう。
なぜ馬謖は斬られたのか?
馬謖は敗北後、故事の如く諸葛亮によって処断を命令されます。ここで斬首になったかどうかは実ははっきりとしておらず、蜀書の諸葛亮伝や王平伝では処刑されたとあるものの、馬謖伝では「獄に下されて物故す」とされており、獄中で死んだ可能性もあるとの考察もあるようです。
真偽はともかくここでは馬謖は処刑されたということで行きますが、なぜ馬謖が処刑されたのかは軍令違反、敗北など色んな理由があるものの、大きな理由に「処罰を恐れての逃亡」が決定だとなっているようです。
軍令違反をし、敗北をし、その上罰を恐れて逃亡……これは最早役満、諸葛亮の涙は悲しみだけではなかったのかも……なんて思ってしまいますね。
趙雲の評価
この街亭の戦いで評価を挙げたのが趙雲です。
趙雲は街亭の戦いの起こった第一次北伐では別ルートでいわゆる囮役を務めていました。そして馬謖たちが敗れた後は更に曹真軍を引き付け、敗北の中でも兵士たちを良くまとめて大敗にまで至らなかったと言われています。
撤退戦の難しさは日本の歴史でも言われている通りであり、その撤退戦をそつなくこなした趙雲が評価されるのは理解できますが、趙雲が評価されたのはその撤退戦での行動にあるとも言われているのです。
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