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本多忠勝の強さは異常!生涯に1つの傷も負わなかった豪傑の生涯

2020年7月17日


 

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本多忠勝

 

本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川四天王の1人で徳川十六神将・徳川三傑に数えられる徳川を代表する猛将です。そんな忠勝の凄さは生涯に大小57回に及ぶ合戦に参加しながら、いずれの戦いにおいても傷を受けた事がないという点でしょう。

 

戦国の猛将と言えど何十年も戦えば、体は傷だらけ、指の2、3本は欠損しているのも当たり前な中、死ぬまで無傷とはどこまで強いのか?今回は本多忠勝の強さについて解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天文17年本多忠高の長男として誕生

徳川家康

 

本多忠勝は通称を平八郎と言い、天文17年安祥松平家(あんじょうまつだいらけ)の最古参の安祥譜代(ふだい)本多氏の本多忠高(ほんだただたか)の長男として三河国額田郡蔵前(ぬかたぐんくらまえ)に誕生します。

 

虎といちゃつく織田信秀

 

父の本多忠高も小豆坂の戦いで織田信秀を破った剛の者でしたが、天文18年の第三次安城合戦で織田信広が守る安祥城を夜襲し戦果を挙げたものの翌日の戦いで流れ矢に当たり戦死します。23歳でした。

 

父を亡くしたまだ2歳の忠勝は、叔父の本多忠真の下で養育される事になります。幼くして徳川家康に仕えた本多忠勝は、永禄3年(1560年)に12歳で桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣を飾りました。

兵糧を運ぶ兵士

 

その後、徳川家康の最大のピンチとも言われる永禄6年(1563年)三河一向一揆では多くの本多一族が家康の敵になるなかで、忠勝は一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗して家康側に残り武功を挙げ、永禄9年(1566年)には19歳で旗本先手役に抜擢され与力54騎を付属されました。以後の忠勝は、家康の居城の城下に住み、旗本部隊の将として活躍します。

 

徳川四天王としての活躍

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

本多忠勝は、元亀(げんき)元年(1570年)の姉川の戦いに参加し、家康本陣に迫る朝倉軍1万人に対して、無謀とも思える単騎駆けを敢行。

 

ここで、「忠勝を殺してはならぬ」と家康も本隊を率いて朝倉軍に突撃、同僚の榊原康政(さかきばらやすまさ)が朝倉軍の側面を突き、朝倉軍を打ち崩しています。姉川の戦いで忠勝は朝倉軍の豪傑、真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうさえもん)と一騎打ちし勇名を馳せました。元亀3年(1572年)の二俣城の戦いの前哨戦である一言坂の戦いでは、偵察隊として先行していましたが、そこで武田本軍と遭遇します。

 

真田丸 武田信玄

 

本多忠勝は、報告の為に撤退を開始しますが、武田軍に追撃され、大久保忠佐と共に殿を務め、坂下という不利な地形に陣取りつつ、武田の猛将馬場信春(ばばのぶはる)の部隊を相手に奮戦して家康率いる本隊を逃がすのに成功しました。

 

さらに、同年12月の三方ヶ原の戦いでは、左翼を担当し山県昌景(やまがたまさかげ)隊と戦い撃退、また、犀ヶ崖(さいががけ)に陣取った武田軍に夜襲を掛け、武田軍を大混乱に陥らせて多数の死者を出させる武功を挙げました。

 

徳川を格下として見ていた武田家は、本多忠勝の奮戦を賞賛し、武田軍の小杉左近(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と落首で褒めたそうです。

 

関連記事:本多忠勝が最強である証拠は何か?徹底的かつ多角的に解説

 

はじめての戦国時代

 

武田キラーの意外な本音

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

天正元年(1573年)の長篠城攻めでは、9月に堀越で榊原康政等と共に武田軍を破って長篠城に入城して城を守り、天正3年の長篠の戦い、天正8年の高天神城の奪還戦にも参加しました。これらの合戦における忠勝の活躍は、敵味方を問わずに賞賛され、家康も「まことに我が家の良将なり」と激賞しています。

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

本多忠勝は武田キラーとして縦横無尽な活躍をしましたが、長篠合戦で多くの武田家の勇将が死んだ事を知り落ち込み、「武田の良将が多く死んでしまい残念だ。もうあのように血沸き肉躍る日々はやってこないだろう」と呟き、好敵手の死を惜しんだと言います。

 

伊賀越えで家康を守る

こっぴどく敗退する徳川家康

 

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変勃発、その頃、運悪く徳川家康は京都に近い堺にいて絶望のあまりに取り乱し京都に行って信長の後を追おうとします。

 

しかし、随行していた本多忠勝が「信長公に殉死して何になりましょう!本当に信長公に報いる気があるなら三河まで帰り軍勢を整えて明智日向を討つべきです」と諫言。

一向一揆(農民)

 

こうして、家康は伊賀越えを決行しましたが、本多忠勝等、徳川四天王は落ち武者狩りの一揆勢の首を200も取りました。この時、忠勝は帰路の途中の木曽川を船で渡った時、渡し終わった船の船底を槍の石突で突き破り、沈没させて追手が使用するのを防いだそうです。

 

 

秀吉も泣いた忠勝の武勇

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

天正12年(1584年)4月の小牧・長久手の戦いでは、当初、忠勝は留守を任されていましたが、豊臣の大軍に自軍が崩れかけているのを聞き、矢も楯もたまらず出撃。

 

わずか500の兵をひきいて小牧山に駆けつけ、5町先で豊臣の大軍の前に立ち塞がり、龍泉寺川に単騎で乗り入れると悠々と馬の口を洗わせたと伝わります。

金の亡者の豊臣秀吉

 

あまりに大胆な忠勝の行動に秀吉は驚き、同時に主君を思って我が身を犠牲にして時間を稼ごうとする忠義に落涙し、「あの豪傑を殺してはならぬ」と部将に命じた為に大軍は遠回りをする事になり、その間に徳川軍は体制を立て直す事が出来ました。豊臣秀吉は忠勝の豪胆さを気に入り、山ほどの贈物をしてスカウトしますが、忠勝は全て丁重に断っています。

 

関ケ原の功績で桑名藩10万石の藩祖に

安土城 織田信長が作らせた城

 

小田原攻めの後、徳川家康が関東に移封になると、上総国夷隅郡大多喜(かずさのくにいすみぐんおおきた)に榊原康政と共に家臣団中2位の10万石を与えられました。二人の領地が江戸から遠いのは周辺の大名に備える理由があり、榊原康政は北の真田氏や上杉氏への備え、忠勝は安房国の里見氏への備えです。

 

慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは家康本軍に従軍し、豊臣恩顧の武将が寝返らないように監視する役割を担いました。本戦でも活躍し、僅かな手勢ながら90人もの首を挙げたと言われています。関ケ原の功績で、慶長6年には伊勢国桑名10万石を与えられ移封すると、旧領大多喜は次男の本多忠朝に別家5万石で与えられました。

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

本多忠勝は桑名藩の藩政確立に尽力し、城郭を修築して防備を固め、慶長の町割りを断行して東海道宿場の整備をし、桑名藩創設の名君と仰がれます。

 

慶長15年10月18日63歳で死去

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

関ケ原の戦いの後、戦乱の収束で徳川幕府には本多正純(ほんだまさずみ)のような若い文知派が台頭、忠勝自身も慶長9年頃から健康を害し、江戸幕府の中枢からは遠ざかりました。

 

病を得た事で家康に隠居を願い出るものの家康から慰留された忠勝ですが、慶長12年(1607年)には眼病を患い、慶長14年には嫡男の本多忠政に家督を譲って隠居します。そして、翌年、慶長15年10月18日に桑名で死去しました。享年63歳の大往生でした。

日本戦国時代の鎧(武士)

 

本多忠勝は臨終に際し、「サムライとは首を獲らずとも手柄がなくても、難事に臨んで退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守る者をいうのだ」という遺言を残しました。まさにその通り、本多忠勝は終生、家康の傍を離れず、家康の苦難を弾き飛ばし続けた守護神のような男でした。

 

本多忠勝年表

幕末 魏呉蜀 書物

 

・天文17年(1548年)三河国に本多忠高の嫡子として生まれる

・永禄3年(1560年)初陣で大高城への兵糧運び入れに従う

・永禄6年(1563年)三河一向一揆で家康側について奮戦

・元亀元年(1570年)姉川の戦いに参戦、朝倉軍崩壊の切っ掛けをつくる

・元亀3年(1573年)一言坂の戦いで徳川軍の殿を務めて馬場信房を撃退

・天正8年(1580年)武田家を攻めて高天神城を陥落させる

・天正10年(1582年)家康を励まし伊賀越えに随行し家康の窮地を救う

・天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで秀吉にその豪胆ぶりを讃えられる

・天正18年(1590年)関東移封に伴い上総大喜多10万石を与えられる

・慶長5年(1600年)関ケ原の戦いに参加し、首を90獲る。桑名藩主に移封

・慶長15年(1610年)63歳で桑名藩で死去。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

本多忠勝は、その武勇で織田信長にも、豊臣秀吉にも欲しいと言わせしめた名将です。ところが、当人は破格の待遇をちらつかせられても、少しも揺らぐ事なく、家康のボディーガードとしての人生を全うしました。もらった石高も10万石と400万石はあった家康の譜代にしては余り多くもないですしね。それでも忠勝には、一度主君と決めたからには困難な時に、主と枕を並べて死ぬのが武士という忠勝の誇りがあったのでしょうね。

 

関連記事:本多忠勝はどんな性格をしていたの?戦国時代最強の武将の性格を分かりやすく解説

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武田信玄

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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