足利義昭と言えば、少し前までは弱々しく、織田信長に担がれたから将軍になれたものの、将軍になると勘違いして自分の実力と錯覚し、簡単に信長に排除されて室町幕府を滅亡させた人として有名でした。
しかし、その後日本史が研究され、実は義昭はそんなに弱々しい人ではなく、信長に京都を追放された後も将軍職を続行し続けながら反織田勢力を糾合し続けた織田信長最強のライバルだった事が分かってきました。
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天文6年11月13日、足利義晴の次男として誕生
室町幕府の最期にして最もタフな将軍、足利義昭は天文6年(1537年)12代将軍、足利義晴の次男として生まれます。しかし、将軍職は兄の義輝に譲られる事が決まっていたので、将軍家の慣例に従い興福寺の一乗門跡に入室して覚慶と名乗りました。本当なら、義昭はこのまま坊主として人生を終えるはずだったのです。
しかし、永禄8年(1565年)永禄の変が勃発し、兄の足利義輝と母の慶寿院、弟達が松永久通や三好三人衆に殺害されました。この時、覚慶も松永久通に捕えられ、興福寺に幽閉・監視され、行動の自由を奪われます。
兄、義輝の側近に救われ還俗し足利家の当主となる
足利義輝の無念の最期に、義輝の側近は弟の覚慶を次代の将軍に立てて奮起しようとします。かくして、一色藤長や和田惟政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝、さらに大覚寺門跡の義俊に救われて脱出。
奈良から木津川を遡り伊賀国に脱出し、近江国の六角義賢の許可を得た上で、甲賀郡の和田城に身を置きます。ここで覚慶は足利家の当主となる事を宣言しました。
矢島に御所を置くも戦国大名は頼りにならず
甲賀郡の矢島に御所を開いた覚慶は、永禄9年(1566年)還俗して足利義秋を名乗ります。この頃の義秋は、三管領家の一つ、河内国の畠山高政、関東管領、上杉輝虎、能登国守護、畠山義綱と緊密に連絡を取り合い、上洛の機会を狙います。
六角義賢も、この時点では義秋の上洛に好意的で、和田惟政に命じて、浅井長政と織田信長の妹、お市の婚姻の実現を働きかけていました。計画は上首尾で、和田惟政と細川藤孝の周旋で、信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢、南近江を経由して上洛を目指す事になります。
三好三人衆は慌て、突如、義秋の矢島御所を3000人で襲撃しますが、この時は大草氏のような奉公衆の奮戦で撃退できました。
さあ、これで早くも将軍になれるかと思いきや、約束通りに永禄9年8月に上洛の軍勢を起こした織田信長の軍は、裏切った斎藤龍興の襲撃を受けて尾張に逃げてしまいます。これはカッコ悪い、赤っ恥をかかされた信長は、しばらく尾張から出られず、義秋の上洛はお預けになりました。しかし、ここから義秋の運勢は急激な下り坂に入るのです。
頼りにならない朝倉義景にサービスしたのに裏切られる
信長の上洛がコケると、次に六角義賢が三好三人衆に通じたという噂が義秋に伝わり、義秋は妹婿である若狭の武田義統を頼りますが、義統はお家騒動を抱えて亡国寸前であり、義秋の上洛に付き合うどころではありませんでした。
そこで、義秋は若狭氏を見限り、越前の朝倉義景を頼り、義景の母を従二位にするなど、己の有能をアピールしてサービスしますが、朝倉義景は越前が豊かな分、覇気に乏しく、義秋は失望、それよりも遠い越後の上杉輝虎を頼りにしていたようです。
しかし、上杉輝虎も、国内の問題に忙殺されて義秋を奉じて上洛どころではありません。
悪戦苦闘の義秋をバカにするように、京都を抑えた三好三人衆は、足利義晴の兄、義冬の血筋である足利義栄を擁立して朝廷工作をして、ついに永禄11年2月8日に将軍宣下を受けて14代将軍に就任します。これには、義秋は相当にショックだったようで、「俺の運が悪いのは名前の秋の字が不吉だからだ」と言うや、名前を義昭に改めてようやく元服します。
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