古代より、子供は宝です。
身もふたもない言い方をすると子供は人材であり、その人材無くして家も国も成り立ちません。
なのでそれなりの地位につくと子供はたくさん欲しいものとなるのは自然の摂理であるのかもしれませんね。さて三国志の英雄の中でも子だくさんなのが曹操、今回は曹操の子供の中から一人、曹節についてお話をしたいと思います。
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曹操のたくさんの「御子」たち
曹操は本当に子だくさんです。何と名前が判明している男子だけでも25人、更に言うと女子の方は判明しているだけで6人もいます。もしかしたら名もなく、夭折した子供もいる可能性もないとは言えないし、名前が残っていないだけで更にもっといたのかもしれませんが、それにしても凄い数ですよね。
同じ時代を生きた劉備、孫権よりも曹操がこんなに多いのはやっぱり曹操が「お盛ん」だったから……?
いやいや、そうとばかりも言えないんですよ。
どうして曹操は子供がこんなに多いの?
曹操の奥さんは14人いました。
「やっぱり曹操はお盛んじゃないか!」と言われそうですが、そうとも言い切れません。
曹操は劉備や孫権とは違い、早い頃から自分の領土を手に入れることができ、基盤を作り、ある意味で安定していたのです。
逆に例を挙げると、劉備は永く領土を持てず、長坂で妻の一人を、下手をすると子供まで失っていた可能性もあるので、曹操はそれだけの環境を作り上げていたということなのですね。そう考えると多くの妻を娶ることができて、子を育てられたというのはある意味で当然のこととも言えるでしょう。
献穆皇后(けんぼくこうごう)
では曹操の娘、曹節の話に移りましょう。彼女は曹操の娘で、後に皇帝となる曹丕からすると妹になります。しかし彼女の母親については分かっていません。曹丕と同母であればそう書かれると思うので、また別の女性の子だったのでしょう。
そんな彼女は曹節という名前よりも、献穆皇后という名の方が有名です。
そう、彼女は献帝の妻であり、皇后になった女性です。
献帝の妻になって
彼女は213年7月に姉、妹と共に献帝の妻になりました。これは曹操が献帝を保護したことによって、献帝との結びつきを強めるためでもあったのでしょう。翌年に曹節を含む三人の姉妹は皇后に次ぐ地位、貴人の位を与えられます。
しかし悲劇は起こります。215年に伏皇后の父親が謀反を計画したことが発覚、既に父親は亡くなっていたものの遺族は処刑されることとなり、伏皇后も処刑されました。曹節はすぐ皇后に立てられた訳ではなかったようですが、やがて皇后に立てられることになったのです。
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