武田信玄の後継者と言えば武田勝頼です。でも、実際には信玄から勝頼への家督相続はイレギュラー案件であり、武田家には本命の後継者、武田義信が存在していました。
しかし武田義信は、あろうことか父に謀反して幽閉され死ぬという悲劇の運命を辿ります。それは一体どうしてなのでしょうか?
この記事の目次
天文7年武田信玄の後継者として誕生
武田義信は、天文7年(1538年)武田晴信(信玄)の嫡男として誕生します。母は公家、三条公頼の娘の三条の方で、この婚姻は武田と同盟関係にあった今川義元の斡旋でした。
さらに天文19年(1550年)に義信が元服すると今川義元の娘を正室に迎えました。一連の出来事から分かるように武田義信は、血筋や政略結婚など全ての面で信玄の後継者と目されています。
天文22年(1553年)12月29日には、武田氏歴代の当主で初めて室町幕府将軍の足利義藤(義輝)から足利将軍家及び清和源氏の通字である「義」の偏諱を受けて太郎義信と名乗り、甲府館内には西曲輪が増設されました。
これは、分家にならず父である信玄と同居する事を意味していて明確な後継者の印です。
初陣そして川中島でも大手柄
武田義信の初陣は、天文22年(1553年)15歳の時で信濃国佐久郡の知久氏攻めで、この初陣で義信は知久氏の反乱を鎮圧し、小諸城を降伏させ、内山城の軍勢を率い落ち武者300人を討ち取る活躍をしています。
また、越後野志に拠れば、第4回の川中島の戦いがおこなわれた永禄4年(1561年)9月、武田軍を蹴散らした上杉謙信の本陣が一休みしているところに、武田太郎義信が800の兵を率いて謙信の本陣を奇襲したという記述があります。
この時、不意を突かれた謙信の旗本は過半数が敗走し老臣、志田源四郎義時、大川駿河守高重が討死。謙信も家宝の鍔鑓を用いて防戦するという窮地に追い込まれます。
このまま上杉本陣が崩壊するかと思われた時、色部修理亮長実が500名、宇佐美定満が1000人を率いて駆けつけ義信を挟み撃ちにし、旗本本隊と合力してようやく義信を広瀬の渡しまで追い返したそうです。
これらの話がどれくらい本当かは分かりませんが、義信が戦闘力が高い人物であった事は間違いないでしょう。
桶狭間の戦いが義信の運命を変えた
しかし、そんな川中島の活躍から僅か4年後永禄8年(1565年)10月には、武田義信は信玄暗殺を企てたとして甲府東光寺へ幽閉され永禄10年(1567年)10月19日には東光寺で死去したのです。一体、この4年間に何が起きたのでしょうか?
武田義信による信玄暗殺計画は、いまでも詳細が不明ですが、その背景には永禄3年の桶狭間の戦いにおける今川義元の戦死。さらに、永禄4年の第4次川中島の戦い後の北信濃の安定が関係しているようです。
武田信玄にとっての相甲駿三国同盟は、背後の憂いを断って、安心して信濃攻略に傾注すべく必要なものでした。ところが、その手強いライバルだった今川義元は桶狭間で新興の織田信長に敗れて死んでしまいます。
さらに後継者の氏真は義元にはまるで及ばない器量なし、当然ガタガタになっていく今川氏を見て、武田信玄の脳裏には密かな野望が持ち上がりました。
そう!それは悲願だった駿河のうーーみーー!(燃えるお兄さん風)を手に入れる事です。
美濃の斎藤道三同様に領内に海がない信玄は、塩止めなどの経済封鎖に苦しめられ湊がないので商業も振るいません。ここは同盟を破棄してでも、信玄は今川氏が保有するうーーみーーー!が欲しかったんじゃなーーい(ロッキー羽田風)
ところが、それは今川氏との同盟強化で定められ、今川氏から正室を受け入れている武田義信の立場を著しく悪くする事も同然でした。
もちろん、武田氏に与する国衆にも親今川の勢力は大勢いて、義信の傅役だった飯富虎昌、側近の長坂源五郎、曽根周防守等は覚なる上は信玄を殺害して義信を担ぎ上げ、親今川に武田氏の方針を戻そうとします。
ところが、これは飯富虎昌の実弟の飯富三郎兵衛の密告で信玄に漏れ、永禄8年(1565年)1月、虎昌以下は謀反の首謀者として処刑。80騎の家臣団は追放処分になりました。
後継者の地位は勝頼に奪われ信玄は織田と結び・・
飯富虎昌等が処刑された永禄8年1月から9か月後の永禄8年10月、武田義信は甲府の東光寺に幽閉された上に強制的に義元の娘と離縁させられ武田の後継者の地位を失う事になります。
信玄は、義信の異母弟の諏訪勝頼に織田信長の養女の龍勝院を与えて、同盟を結ぶに至りました。信長との同盟は、対今川ではなく、東美濃で武田と織田の勢力圏が重なり、小競り合いが増えた事に対する処置でしたが、もちろん、今川氏や義信がそうは思わない事は明白でした。
義信と婚姻していた今川氏の正室は義信が死んだ後に駿河に送り返され、ここから武田の駿河、遠江侵攻は激しくなります。これを考えると義信が幽閉され死に追い込まれた原因には、信玄の今川氏に対する手の平返しがあったと考えるのが自然です。
【次のページに続きます】