『はじめての三国志』の記事執筆時にライターが使用している史料は正史『三国志』ですが、稀に『後漢書』という史料を使用するライターもおられます。『後漢書』とはどんな史料なのでしょうか?
今回は『後漢書』と執筆者の范曄について紹介します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
この記事の目次
忘れ去られた『後漢書』
読者の皆様が教科書で習う『後漢書』は劉宋(420年~479年)の范曄が執筆したものとして知られています。しかし、三国時代(220年~280年)から『後漢書』は存在していたのです。唐(618年~907年)に執筆された『隋書』という史料には多くの『後漢書』が記されています。有名なものは以下の通りです。
謝承『後漢書』全130巻 、薛塋『後漢記』全65巻、司馬彪『続漢書』全83巻、華嶠『後漢書』全17巻、謝沈『後漢書』全85巻、張塋『後漢南記』全45巻、袁山松『後漢書』全95巻・・・・・・・・
キリが無いのでこの辺でストップします。ほとんどの書物は唐の初期まで残っていましたが、唐第3代皇帝高宗の息子である李賢が、范曄の『後漢書』に注を作ったことから、范曄の『後漢書』だけが世間に周知されるようになり、他は忘れ去られました。
復元作業により復活した『後漢書』
清(1644年~1911年)の時代になると、歴史学が発達していきます。そこで歴史家たちは忘れ去られた『後漢書』に復元作業に挑みます。歴史家たちは『文選・『太平御覧』などの詩集や百科事典に引用されている文章をもとに復元を開始しますが、簡単には出来ません。
結局、清末になり汪文台という学者が様々な人が書いた原稿をもとに完成させたのでした。これが『七家後漢書』という書物です。『七家後漢書』は台湾に渡り、そこで出版されました。専門的な書店や大学図書館で読むことが可能です。
空前の『後漢書』ブーム
このように『後漢書』は大量にあったことが分かります。これはなぜかというと、三国時代の時点で『史記』の続編を執筆する考えが、珍しいことではなかったからです。
『史記』の続編と言われている『漢書』は後漢(25年~220年)の班固が執筆しましたが、歴史書を個人が執筆するのは当時では珍しいことでした。現代の感覚では信じられないかもしれませんが、歴史書を許可無く執筆するのは重罪でした。
実際に班固は『漢書』の執筆がバレて捕まっており、危うく死罪になるところでした。ところが後漢第2代皇帝明帝が『漢書』を読んで気に入ったことから、班固は無罪放免。それどころか班固は『漢書』の執筆許可までもらいます。
このように歴史書を執筆することは命がけの作業だったのです。三国時代以降になると、班固の『漢書』の続きを執筆したい考えが自然と知識人の間に定着しました。もちろん命がけの作業でしたが、彼らはこっそりと行います。内容については断片的にしか伺うことしか出来ませんが、完成しているのもあれば未完成で終わったのもあるようでした。
『後漢書』と范曄
今まで散々、忘れ去られた『後漢書』の話ばかりされて、「晃はいつになったら、俺たちの知っている『後漢書』の話をするんだ?」と思っている読者の皆様もいることでしょう。安心してください、ちゃんと今からします。
一般的に知られている『後漢書』は劉宋の范曄が執筆したものです。『後漢書』は彼のオリジナル作品ではなく先ほど紹介した忘れ去られた『後漢書』をもとに編纂したものです。
范曄は「『後漢書』を作る際に古今の著作や評論は目を通してみたが、ほとんど気に入ったものは無かった。『漢書』の作者の班固は有名だが、気ままに文章を書きすぎだ。私は班固の知識には及ばないが、内容を整理することは決して恥じていない」と獄中で自信満々のコメントをしています。
なんで范曄は獄中で語っているのか、それは後で解説します・・・・・・
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