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後漢書とは何?大量にあった後漢書と著者・范曄の生涯

2020年8月7日


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後漢書とは何?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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歴史家・范曄の誕生

 

范曄は東晋(317年~420年)末期から劉宋初期の軍人である范泰(はんたい)の子です。家は名門でした。東晋の隆安2年(398年)に范曄は生まれました。生まれた場所は(かわや)です。厠というのは現代のトイレ。生まれた時に范曄は(せん)に頭をぶつけます。塼とはレンガ。そのため幼名は范塼(はんせん)と言いました。幼い時から学問が好きであり文章や音楽に秀でていました。

 

だが、性格はワガママであったことから范曄の兄は「この子は将来、よくないことをするかもしれない」と心配していました。兄の心配はやがて現実になっていくのでした・・・・・・

 

葬儀では非常識な行動!

 

劉宋の元嘉元年(424年)に范曄の以前の上司である劉義康(りゅうぎこう)の妻が亡くなります。この時、葬儀の担当役人になっていたのが范曄の弟でした。この時、范曄は弟の屋敷に泊まっていました。

 

しかし、何を考えているのか音楽をかけて歌ったり演奏をして楽しんでいたのです。これを聞いてカンカンに怒ったのは劉義康。劉義康は范曄を左遷してしまいました。ちなみに、左遷されて執筆したのが『後漢書』でした。

 

范曄の葬儀中の非常識な行為はこれだけではありません。元嘉16年(439年)に継母が亡くなった時には、葬儀の場に堂々と愛人を連れてきたのです。これも弾劾されますが、劉宋第3代皇帝文帝(ぶんてい)は范曄の才能を愛していたことから処罰しませんでした。

 

孔子の子孫に目をつけられる

孔子と儒教

 

先述したように范曄はワガママな性格であり、文帝が琵琶を弾いてほしいと頼んでも「イエス」と言いません。この性格に目を付けたのが孔熙先(こうきせん)という男。彼は孔子(こうし)の子孫です。孔熙先は博識でしたが、出世も出来ないさえない男。

 

前に収賄の罪で捕縛された時に劉義康のおかげで助かった過去がありました。劉義康は先ほど葬儀の話で登場した人です。孔熙先は劉義康を盛り立てて反乱を起こそうと計画しました。そこで名門である范曄と手を結ぼうとします。

 

だが、范曄はワガママでひねくれ者。簡単には会ってくれません。孔熙先は范曄の甥の謝綜(しゃそう)を仲介役にしてワイロを贈ります。少しずつ心を許した范曄は、やがて孔熙先と面会。孔熙先は范曄と朝廷に対しての不満を范曄にあおり、劉義康と手を結ぶことを伝えます。

 

范曄の最期

 

一方、劉義康は反乱には承諾してくれますが、前に范曄を左遷しているので彼とのよりを戻すのは難しいとコメント。しかし、謝綜が説得したので、これもクリア!

 

反乱の準備は整いますが、徐湛之(じょたんし)という男が朝廷にチクります。彼は劉義康の側近でした。こうして劉義康・孔熙先・謝綜、そして范曄は獄に繋がれました。范曄が自分が執筆した『後漢書』についてコメントしたのは、この時でした。

 

范曄は楽観的な人物であり20日経過しても音沙汰が無かったので、「もしかしたら助かるかもしれない」とコメント。だが、残念なことに判決は死罪。刑場に引きずり出された范曄に対して妻は「あなただけが死ぬのならいいですけど、子供まで道連れなんてひどい!」と叫びます。

 

また、范曄の実母は彼の頬を叩きますが范曄はどこ吹く風。范曄の態度が変わったのは愛人が出てきてからでした。愛人の顔を見ると范曄は、ポロポロと大粒の涙を流したとのことでした。劉宋の元嘉22年(445年)に范曄は刑場の露に消えました。享年48歳。

 

劉宋史ライター 晃の独り言 晃の好きな中国史のキャラクターは?

三国志ライター 晃

 

先日、Youtubeに掲載された「文官って何するの?陸遜も就任していた役職」という動画のコメントを確認していたところ、nobuob19氏から興味深いコメントが届きました。

 

 

“晃さんの中国史の中で好きな人物は誰ですか?よろしければ、その理由もお願いします。”

 

避けられない質問が来た・・・・・・いつかは聞かれると思っていましたが、とうとう来ましたか・・・・・・

 

韓侂冑

 

ズバリお答えします・・・・・・韓侂冑(かんたくちゅう)です。

 

「どこの誰だ?」と思う読者の皆様がいるかもしれません。彼は南宋(1127年~1279年)の政治家であり、簡単に言えば「闇宰相」です。自分は一切表に登場せず、手足となる人物を次々と使っていくタイプの政治家。私が大学の卒業論文で扱った人物でした。詳細なことは私の宋代史関係の記事に書かれていますので、興味関心がある人は一読してみてください。

 

※参考文献

・増井経夫『中国の歴史書 中国史学史』(刀水書房 1984年)

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。

 

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全訳三国志演義

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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