戦国武将としては残念な人扱いをされている越前朝倉氏の戦国大名朝倉義景。その残念ぶりは、ミルクボーイ風ネタで秀吉の嫁の寧々がどうしても思い出せない戦国武将として織田信長に散々にディスられ笑いを取られる始末でした。
でも、kawausoは越前朝倉氏を調べていくうちに、どうも朝倉家が滅んだのは義景だけのせいではないのではないか?
と考えるようになったのです。
朝倉滅亡の原因には朝倉家の統治組織が影響
朝倉氏滅亡の要因として、一番に上げられるのは、その統治組織です。朝倉氏の頂点に立つのはもちろん歴代の当主で、その下に一乗谷奉行人という世襲の重臣7名がいて、直轄地の坂井郡、古田郡、足羽郡を統治しています。
さらに、商業の盛んな府中には、府中両人として青木氏と印牧氏が世襲し、朝倉家当主の監督を受けながら丹生郡、今立郡、南条郡を統治していました。
問題は次の敦賀郡司と大野郡司で、この両者もそれぞれ朝倉一門の世襲なのですが、軍役を請け負い、当主の命令で合戦に参加する義務を背負っているものの独立性が高い存在でした。おまけに、敦賀郡司と大野郡司は仲が悪く、大野郡司に至っては朝倉孝景の時代に謀反まで起こしているのです。
敦賀郡司と大野郡司の沿革
では、越前朝倉氏にとって、諸刃の剣になった敦賀郡司と大野郡司について説明します。まず、敦賀郡司ですが、ここは朝倉家の6代当主朝倉家景の息子、朝倉景冬が就任したのが最初です。
朝倉景冬は、守護の斯波氏の軍奉行を勤めて活躍し、応仁の乱でも兄の孝景と共に度々手柄を立て京都では、朝倉の小天狗の異名を取りました。つまり敦賀郡司は、最初から合戦で当主に加勢して守り立てる存在だったのです。
しかし、景冬が死んで息子の景豊が敦賀郡司になると、朝倉家当主の貞景に取って代わろうとして謀反を企みますが、当初は味方していた朝倉教景(宗滴)が貞景に謀反を漏らしたので、先に貞景に攻められ敦賀城を包囲されて自害しました。
代わりに敦賀郡司になったのは謀反を密告した朝倉宗滴で、以後宗滴は敦賀郡司として朝倉家当主に代わり、外交と合戦に明け暮れ朝倉氏をリードします。天文24年(1555年)朝倉宗滴が死ぬと養子の朝倉景紀が敦賀郡司を継ぎました。
一方、大野郡司は9代当主朝倉貞景の次男の朝倉景高でした。この景高も武闘派で永正16年(1519年)7月には兵3000を率いて美濃国へ出陣し、土岐頼芸を擁する斎藤彦四郎の勢力と戦い連戦連勝。土岐頼武の守護職就任に貢献しています。
大永7年(1527年)頃から大野郡司を務め、天文5年(1536年)土岐頼芸と土岐頼武の守護職争いでは大野郡穴間城を攻略しています。しかし、この頃から兄にあたる10代当主朝倉孝景と不仲になり、大野郡司をクビになりました。
景高は、これを恨んで天文9年(1540年)に上京し、公家衆や幕府要人に接近して孝景謀反を企みますが失敗し京を追放されます。それでも諦めない景高は若狭武田氏に身を寄せ、尾張守護の斯波氏や本願寺と連携して越前侵攻の機会を窺いますが全ては失敗に終わり、天文12年(1543年)、若狭を退き、和泉国堺湊から西国に落ち延びています。
敦賀郡司抗争の末に廃止
一度は廃止された大野郡司ですが、結局、朝倉景高の息子の朝倉景鏡が大野郡司を継ぎます。朝倉景鏡は有能な人物であったようで、朝倉一門衆でも筆頭的な地位にあったのですが、永禄7年(1564年)9月、加賀一向一揆攻めの際に大事件が起こります。
この時、朝倉義景は大将に朝倉景鏡と朝倉景隆を任命し9月1日に加賀へ攻め込みました。敦賀郡司の朝倉景垙は、一向一揆攻めの大将を希望していましたが義景は許可を与えませんでした。
それが原因で、景垙は景鏡と陣中で口論を起こし、敗れた景垙はなんと自害してしまいます。一門の者が陣中で自害するという大事件に朝倉軍は動揺、やむなく朝倉義景自ら出陣して侵攻を成功させました。
これを聞いた景垙の父朝倉景紀は憤慨、僅か2歳の景垙の子を連れて自領に隠居します。以来、敦賀郡司と大野郡司は険悪な関係になり、足利義昭が一乗谷に入った際も席次を巡って争いを起こし一方が義昭の元へ行くと一方は参加しないという有様でした。
景紀は、幼い景垙の子七郎では家督を継げないので、松林院鷹瑳と名乗っていた次男を還俗させます。これが朝倉景恒ですが、元亀元年(1570年)4月の織田信長の越前侵攻に遭遇し、朝倉本家に援軍を要請しました。
しかし、後詰に向かったのは、犬猿の仲の大野郡司、朝倉景鏡で、わざと府中から先に軍を進めず日和見に徹します。やがて、景恒は兵力差を理由に金ヶ崎城を開城しました。
この後、有名な浅井長政の裏切りが起きて、織田軍は撤退していきますが、敗れた朝倉景恒に対し、朝倉一門は「不甲斐なし」として非難。心痛の景恒は永平寺に遁世して間もなく死去、敦賀郡司職も廃止されました。
朝倉景鏡が朝倉家を主導するが・・
敦賀郡司が滅んだあとは朝倉景鏡が朝倉の軍事を代表するようになります。姉川の合戦では、浅井氏に加勢する総大将の地位を朝倉景健に譲りますが、その後、志賀の陣や畿内から近江における織田家との戦いで景鏡が総大将を務めました。
しかし、元亀3年(1572年)の織田軍による小谷城包囲戦では精彩を欠き、朝倉軍から前波吉継、富田長繁、毛屋猪介らが織田軍に寝返りました。
天正元年(1573年)8月に織田軍が小谷城を包囲した際には、軍事行動の連続を理由に出陣を拒否。朝倉義景は自ら出陣しますが、浅井氏を救えないばかりか壊走して、逆に織田軍の越前侵攻を招きました。
面白い事に朝倉軍潰走の途中の刀禰坂の戦いでは、姉川の戦いで総大将を務めた一門衆の朝倉景健が奮戦し、義景を逃がす為に血路を開いています。敦賀郡司の家が滅んだ結果、安居城主、朝倉景健は景鏡に継ぐ一門衆のナンバー2の地位であり、どっちかと言えば、景健を重用した方がマシだったんじゃないですかね。
一乗谷では多くの家臣が逃げ散っていましたが、朝倉景鏡は残り自害しようとする義景を押しとどめて自領の大野での再起を進言しますが、結局織田信長に内応し、宿舎に入った義景一行を包囲して自害に追い込んでいます。
麒麟がくるライターkawausoの独り言
朝倉義景と言えば、中々合戦に出ない人として有名ですが、実は父の孝景も頻繁に合戦に出ている割には自らは軍を指揮せずに、敦賀郡司、朝倉宗滴や弟の大野郡司、朝倉景高のような一門衆に任せています。当主自らが軍勢を率いないので、どうしても郡司職が力を持ってしまい、力のない当主が出てしまうと、それをコントロールする事が出来なくなったのです。
参考:Wikipedia他
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